星女郎
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)倶利伽羅《くりから》峠

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)特別|好物《ものずき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]《ぎょうかく》
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       一

 倶利伽羅《くりから》峠には、新道と故道とある。いわゆる一騎落から礪波山《となみやま》へ続く古戦場は、その故道で。これは大分以前から特別|好物《ものずき》な旅客か、山伏、行者の類《たぐい》のほか、余り通らなかった。――ところで、今度境三造の過《よぎ》ったのは、新道……天田越《あまだごえ》と言う。絶頂だけ徒歩すれば、俥《くるま》で越された、それも一昔。汽車が通じてからざっと十年になるから、この天田越が、今は既に随分、好事《ものずき》。
 さて目的は別になかった。
 暑中休暇に、どこかその辺《あたり》を歩行《ある》いて見よう。以前幾たびか上下したが、その後《のち》は多年|麓《ふもと》も見舞わぬ、倶利伽羅峠を、というに過ぎぬ。
 けれども徒労でないのは、境の家は、今こそ東京にあるが、もと富山県に、父が、某《なにがし》の職を奉じた頃、金沢の高等学校に寄宿していた。従って暑さ寒さのよりよりごとに、度々倶利伽羅を越えたので、この時志したのは、謂《い》わば第二の故郷に帰省する意味にもなる。
 汽車は津幡《つばた》で下りた。市との間に、もう一つ、森下《もりもと》と云う町があって、そこへも停車場《ステエション》が出来るそうな、が、まだその運びに到らぬから、津幡は金沢から富山の方へ最初の駅。
 間四里、聞えた加賀の松並木の、西東あっちこち、津幡まではほとんど家続きで、蓮根《れんこん》が名産の、蓮田《はすだ》が稲田より風薫る。で、さまで旅らしい趣はないが、この駅を越すと竹の橋――源平盛衰記に==源氏の一手《ひとて》は樋口兼光《ひぐちかねみつ》大将にて、笠野富田を打廻り、竹の橋の搦手《からめて》にこそ向いけれ==とある、ちょうど峠の真下の里で。倶利伽羅を仰ぐと早や、名だたる古戦場の面影が眉に迫って、驚破《すわ》、松風も鯨波《とき》の声、山の緑も草摺《くさずり》を揺り揃えたる数万《すまん》の軍兵《ぐんぴょう》。伏屋《ふせや》が門《かど》の卯《う》の花も、幽霊の鎧《よろい》らしく、背戸の井戸の山吹も、美女《たおやめ》の名の可懐《なつかし》い。
 これは旧《もと》とても異《かわ》りはなかった。しかしその頃は、走らす車、運ぶ草鞋《わらじ》、いざ峠にかかる一息つくため、ここに麓路《ふもとじ》を挟《さしはさ》んで、竹の橋の出外《ではず》れに、四五軒の茶店があって、どこも異らぬ茶染《ちゃぞめ》、藍染《あいぞめ》、講中手拭《こうじゅうてぬぐい》の軒にひらひらとある蔭から、東海道の宿々のように、きちんと呼吸《いき》は合わぬながら、田舎は田舎だけに声繕《こわづくろ》いして、
「お掛けやす。」
「お休みやーす。」
 それ、馬のすずに調子を合わせる。中には若い媚《なま》めかしい声が交って、化粧した婦《おんな》も居た。
 境も、往《ゆ》き還《かえ》り奥の見晴しに通って、縁から峠に手を翳《かざ》す、馴染《なじみ》の茶店があったのであるが、この度見ると、可なり広いその家構《やがまえ》の跡は、草|茫々《ぼうぼう》、山を見通しの、ずッと裏の小高い丘には、松が一本、野を守る姿に立って、小さな墓の累《かさな》ったのが望まれる。
 由緒ある塚か、知らず、そこを旅人の目から包んでいた一叢《ひとむら》の樹立《こだち》も、大方切払われたのであろう、どこか、あからさまに里が浅くなって、われ一人、草ばかり茂った上に、影の濃いのも物寂しい。
 それに、藁屋《わらや》や垣根の多くが取払われたせいか、峠の裾《すそ》が、ずらりと引いて、風にひだ打つ道の高低《たかひく》、畝々《うねうね》と畝った処が、心覚えより早や目前《めさき》に近い。
 が、そこまでは並木の下を、例に因って、畷《なわて》の松が高く、蔭が出来て涼《すずし》いから、洋傘《こうもり》を畳んで支《つ》いて、立場《たてば》の方を振返ると、農家は、さすがに有りのままで、遠い青田に、俯向《うつむ》いた菅笠《すげがさ》もちらほらあるが、藁葺《わらぶき》の色とともに、笠も日向《ひなた》に乾《から》びている。
 境は急に心細いようになった。前《さき》にも後にも、往来《ゆきき》の人はなかったのである。
 偶《ふ》と思出したことがあって、三造は並木の梢《こずえ》――松の裏を高く仰いで見た。鵲《かささぎ》の尾の、しだり尾の靡《なび》きはせずや。……

       二
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