で見えました。それは戸外《そと》からも見える……崖へ向けて、雨戸を開けた処があったからです。
 が、ちょうど土間の広くなった処で、同じ事ならもっと手前を開けておいてくれれば可い……入口《はいりくち》しばらくの間、おまけに狭い処が、隧道《トンネル》でしょう。……処へ、おどついてるから、ばたばたとそこらへ当る。――黙って手を曳《ひ》いたではありませんか。」

       二十二

「対手《あいて》は悠々としたもので、
(蜘蛛の巣が酷《ひど》いのでございますよ。)
 か何かで、時々|歩行《ある》きながら、扇子……らしい、風を切ってひらりとするのが、怪しい鳥の羽搏《はう》つ塩梅《あんばい》。
 これで当りはつきました。手を曳いてるのは貴婦人の方らしい、わざわざ扇子を持参で迎いに出ようとは思われませんから。
 果して、そうでした。雨戸の開けてある、広土間《ひろどま》の処で、円髷《まるまげ》が古い柱の艶《つや》に映った。外は八重葎《やえむぐら》で、ずッと崖です。崖にはむらむらと靄《もや》が立って、廂合《ひあわい》から星が、……いや、目の光り、敷居の上へ頬杖《ほおづえ》を支《つ》いて、蟇《ひきがえる》が覗《のぞ》いていそうで。婦人《おんな》がまた蒼黄色《あおぎいろ》になりはしないか、と密《そっ》と横目で見ましたがね。襲《かさね》を透いた空色の絽《ろ》の色ばかり、すっきりして、黄昏《たそがれ》の羅《うすもの》はさながら幻。そう云う自分はと云うと、まるで裾から煙のようです。途端に横手の縁を、すっと通った人気勢《ひとけはい》がある。ああ、白脛《しらはぎ》が、と目に映る、ともう暗い処へ入った。
 向うの、離座敷の障子の桟が、ぼんやりと風のない燈火《ともしび》に描かれる。――そこへ行《ゆ》く背戸は、浅茅生《あさぢう》で、はらはらと足の甲へ露が落ちた。
(さあ、こちらへ。)
 ここで手を離して、沓脱《くつぬぎ》の石に熊笹の生え被《かぶさ》った傍《わき》へ、自分を開いて教えました。障子は両方へ開けてあった。ここの沓脱を踏みながら、小手招《こてまねき》をしたのでしょう。
(上りましても差支えはございませんか。)
 とその期《ご》に及んで、まだ煮切《にえき》らない事を私が言うと、
(主人《あるじ》がお宿をいたします。お宅同様、どうぞお寛《くつろ》ぎ下さいまし。)
 と先へ廻って、こう覗《のぞ》き込むようにして褥《しとね》を直した。四畳半で、腰を曲げて乗出すと、縁越に手が届くんですね。
(ともかく御免を、)
 高縁へ腰を蹂《にじ》って、爪尖下《つまさきさが》りに草鞋《わらじ》の足を、左の膝へ凭《もた》せ掛けると、目敏《めざと》く貴婦人が気を着けて、
(ああ、お濯《すす》ぎ遊ばしましょうね。)
 と二坪ばかりの浅茅生を斜《はす》に切って、土間口をこっちから、
(お綾《あや》さん――)
 と呼びます。
(ああ、もしもし。)
 私は草鞋を解きながら、
(乾いた道で、この足袋がございます。よく払《はた》けば、何、汚れはしません。お手数《てかず》は恐れ入ります、どうぞ御無用に……しかしお座敷へ上りますのに、)
 と心着くと、無雑作で、
(いいえ、もう御覧の通り、土間も同一《おんなじ》でございますもの、そんな事なぞ、ちっともお厭《いと》いには及びませんの。)
 と云いかけて莞爾《にっこり》して、
(まあ、土間も同一だって、お綾さんが聞いたら何ぼでも怒るでしょう。……人様のお住居《すまい》を、失礼な。これでもね、大事なお客様に、と云って自分の部屋を明渡したんでございますよ。)
 いかにも、この別亭《はなれ》が住居《すまい》らしい。どこを見ても空屋同然な中に、ここばかりは障子にも破れが見えず、門口に居た時も、戸を繰り開ける音も響かなかった。
 そこで、ちと低声《こごえ》になって、
(貴女《あなた》は……此家《ここ》の……ではおあんなさいませんのですか。)
(は、私もお客ですよ。――不行届きでございますから、事に因りますと、お合宿《あいやど》を願うかも知れません、御迷惑でござんしょうね。)
 とちょいと煽《あお》いだ、女扇子《おんなおうぎ》に口許《くちもと》を隠したものです。」
「成程、どうも。」
 山伏は髯《ひげ》だらけな頬を撫でる。
「私は、黙って懐中《ふところ》を探しました。さあ、慌てたのは、手拭《てぬぐい》、蝦蟇口《がまぐち》、皆《みんな》無い。さまでとも思わなかったに、余程|顛動《てんどう》したらしい。門《かど》へ振落して来たでしょう。事ここに及んで、旅費などを論ずる場合か、それは覚悟しましたが、差当り困ったのは、お約束の足を払《はた》く……」

       二十三

「……様子で手拭が無いと見ると、スッと畳んで、扇を胸高な帯に挟んで、袂《たもと》を引いたが長襦袢
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