。」
「はい、」
 と澄ました風で居る。
「風呂敷の中は、綺麗な蒔絵《まきえ》の重箱でしたよ。」
「どこのか、什物《じゅうもつ》、」
「いいえ、その婦人《ひと》の台所の。」
「はてな、」
「中に入ったのは鮎《あゆ》の鮨《すし》でした。」
「鮎の鮨とは、」
「荘河《しょうがわ》の名産ですって、」
 先達は唖然《あぜん》として、
「どうもならん。こりゃ眉毛に唾《つば》じゃ。貴辺も一ツ穴の貉《むじな》ではないか。怪物《ばけもの》かと思えば美人で、人面瘡《にんめんそう》で天人じゃ、地獄、極楽、円髷《まるまげ》で、山賊か、と思えば重箱。……宝物が鮎の鮨で、荘河の名物となった。……待たっせえ、腰を円くそう坐られた体裁《ていたらく》も、森の中だけ狸に見える。何と、この囲炉裏《いろり》の灰に、手形を一つお圧《お》しなさい、ちょぼりと落雁《らくがん》の形でござろう。」
「怪しからん、」
 と笑って、気競《きお》って、
「誰も山賊の棲家《すみか》だとも、万引の隠場所《かくればしょ》だとも言わないのに、貴下が聞違えたんではありませんか。ええ、お先達?」
「はい、」
 と言って、瞬きして、たちまち呵々《からから》と笑出した。
「はッはッはッ、慌てました、いや、大狼狽《だいろうばい》。またしても獅噛《しかみ》を行《や》ったて。すべて、この心得じゃに因って、鬼の面を被《かぶ》ります。
 時にお茶が沸きました。――したが鮎の鮨とは好もしい、貴下も御賞翫《ごしょうがん》なされたかな。」

       二十

「承った処では、麓《ふもと》からその重詰を土産に持って、右の婦人が登山されたものと見えますな――但しどうやら、貴辺《あなた》がその鮨を召《あが》ると、南蛮《なんばん》秘法の痺薬《しびれぐすり》で、たちまち前後不覚、といったような気がしてなりません。早く伺いたい。鮨はいかがで?」
 その時境は煎茶《せんちゃ》に心を静めていた。
「御馳走《ごちそう》は……しかも、ああ、何とか云う、ちょっと屠蘇《とそ》の香のする青い色の酒に添えて――その時は、筧《かけひ》の水に埃《ほこり》も流して、袖の長い、振《ふり》の開いた、柔かな浴衣に着換えなどして、舌鼓を打ちましたよ。」
「いずれお酌で、いや、承っても、はっと酔う。」
 と日に焼けた額を押撫《おしな》でながら、山伏は破顔する。
「しかし、その倒れていた婦人ですが、」
「はあ、それがお酌を参ったか。」
「いいえ、世話をしてくれましたのは、年上の方ですよ。その倒れていた女は――ですね。」
「そうそうそう、またこれは面被《めんかぶ》りじゃ。どうもならん、我ながら慌てて不可《いか》ん。成程、それはまだ一言も口を利かずに、貴辺《あなた》の膝に抱かれていたて。何をこう先走るぞ。が、お話の不思議さ、気が気でないで急立《せきた》ちますよ、貴辺は余り落着いておいでなさる。」
「けれども、私だって、まるで夢を見たようなんですから、霧の中を探るように、こう前後《あとさき》を辿《たど》り辿りしないと、茫《ぼう》として掴《つかま》えられなくなるんですよ。……お話もお話だが、御相談なんですから、よくお考えなすって下さい。
 ――その円髷《まるまげ》の、盛装した、貴婦人という姿のが、さあ、私たちの前へ立ったでしょう。――
 膝を枕にしたのが、倒れながら、それを見た……と思って下さい。
 手を放すと、そのまま、半分背を起した。――両膝を細《ほっそ》りと内端《うちわ》に屈《かが》めながら、忘れたらしく投げてた裾《すそ》を、すっと掻込《かいこ》んで、草へ横坐りになると、今までの様子とは、がらりと変って、活々《いきいき》した、清《すずし》い調子で、
(姉《ねえ》さん、この方を留めて下さい、帰しちゃ厭《いや》よ。)
 と言うが疾《はや》いか、すっと、戸口の土間へ、青い影がちらちらして、奥深く消え込んだ。
 私は呆気《あっけ》に取られた。
 すると、姉さんと言われた、その貴婦人が、緊《しま》った口許《くちもと》で、黙って、ただちょいと会釈をする、……これが貴下、その意味は分らぬけれども、峠の方へ行《ゆ》くな、と言って………手で教えた婦人《ひと》でしょう。
 何にも言わないだけなお気がさす。
(ええ、実は……)
 と前刻《さっき》からの様子を饒舌《しゃべ》って、ついでに疑《うたがい》を解こうとしたが、不可《いけ》ません。
(ああ、)
 それ覗《のぞ》くまでもなく、立ったままで、……今暗がりへ入った、も一人の後《あと》を軒下にこう透《すか》しながら、
(しばらくどうぞ。)
 坂を上って、アノ薄原《すすきはら》を潜《くぐ》るのに、見得もなく引提《ひっさ》げていた、――重箱の――その紫包を白い手で、羅《うすもの》の袖へ抱え直して、片手を半開きの扉へかける、と厳重に出
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