《の》きも引きもならんです。いや、ならんのじゃない、し得なかったんです――お先達、」
 と何か急《せ》きながら言淀《いいよど》んで、
「話に聞いた人面瘡《じんめんそう》――その瘡《かさ》の顔が窈窕《ようちょう》としているので、接吻《キッス》を……何です、その花の唇を吸おうとした馬鹿ものがあったとお思いなさい。」
 と云うと、先達は落着いた面色《おももち》で、
「人面瘡、ははあ、」
 さも知己《ちかづき》のような言いぶりで、
「はあ、人面瘡、成程、その面《つら》が天人のように美しい。芙蓉《ふよう》の眦《まなじり》、丹花の唇――でござったかな、……といたして見ると……お待ちなさい、愛着《あいじゃく》の念が起って、花の唇を……ふん、」
 と仰向《あおむ》いて目を瞑《ねむ》ったが、半眼になって、傾きざまに膝を密《そ》と打ち、
「津々《しんしん》として玉としたたる甘露の液と思うのが、実は膿汁《うみしる》といたした処で、病人の迷うのを、強《あなが》ち白痴《たわけ》とは申されん、――むむ、さようなお心持でありましたか。」
 真顔で言われると、恥じたる色して、
「いいえ、心持と言うよりも、美人を膝に抱《いだ》いたなり、次第々々に化石でもしそうな、身動きのならんその形がそうだったんです。……
 段々|孤家《ひとつや》の軒が暗くなって、鉄板で張ったような廂《ひさし》が、上から圧伏《おっぷ》せるかと思われます……そのまま地獄の底へ落ちて行《ゆ》くかと、心も消々《きえぎえ》となりながら、ああ、して見ると、坂下で手を掉《ふ》った気高い女性《にょしょう》は、我らがための仏であった。――
 この難を知って、留められたを、推して上ったはまだしも、ここに魔物の倒れたのを見た時、これをその犠牲《いけにえ》などと言う不心得。
 と俯向《うつむ》いて、熟《じっ》と目を睡《ねむ》ると……歴々《まざまざ》と、坂下に居たその婦《おんな》の姿、――羅《うすもの》の衣紋《えもん》の正しい、水の垂れそうな円髷《まるまげ》に、櫛のてらてらとあるのが目前《めのまえ》へ。――
 驚いた、が、消えません。いつの間にか暮れかかる、海の凪《な》ぎたような緑の草の上へ、渚《なぎさ》の浪のすらすらとある靄《もや》を、爪《つま》さきの白う見ゆるまで、浅く踏んで、どうです、ついそこへ来て、それが私の目の前に立ってるじゃありませんか。私を救うためか。
 と思うと、どうして、これも敵方の女将軍《じょしょうぐん》。」
「女将軍?ええ、山賊の巣窟《そうくつ》かな。」
 と山伏はきょとんとする。

       十九

「後で聞きますと、それが山へ来る約束の日だったので、私の膝に居る女が、心待《こころまち》に古家《ふるいえ》の門口《かどぐち》まで出た処へ、貴下《あなた》が、例の異形で御通行になったのだそうです。
 その円髷《まげ》に結《い》った姉《あね》の方は、竹の橋から上ったのだと言いました。つい一条路《ひとすじみち》の、あの上りを、時刻も大抵同じくらい、貴下は途中でお逢いになりはしませんでしたか。」
 先達は怪訝《けげん》な顔して、
「されば、……ところで、その婆さんはどうしましたな、坂下に立ったのを御覧になった時は、傍《そば》についていたというお話続きの、」
 とかえってたずねる。
「それは峠までは来ませんでした。風呂敷包みがあったので、途中見懸けたのを、頼んで、そこまで持たして来たのだそうで。……やっぱりその婆さんは、路傍《みちばた》に二人で立っていた一人らしく思われます。その居た処は、貴下にお目にかかりました、あの縄張をした処、……」
「さよう。」
「あすこよりは、ずっと麓《ふもと》の方です。」
「すると、そのどちらかは分りませんが、貴辺《あなた》に分れて下山の途中で、婆さん一人にだけは逢いました。成程――承れば、何か手に包んだものを持っていた様子で――大方その従伴《とも》をして登った方のでありましょうな。
 それにしては、お話しのその円髷《まげ》に結《い》った婦人に、一条路《ひとすじみち》出会わねばならん筈《はず》、……何か、崖の裏、立樹の蔭へでも姿を隠しましたかな。いずれそれ人目を忍ぶという条《すじ》で、」
「きっとそうでしょう。金沢から汽車で来たんだそうですから。」
 先達は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「金沢から、」
「ですから汽車へいらっしゃる、貴下と逢違う筈はありません。」
「旅をかけて働きますかな。」
「ええ、」
「いや、盗賊《どろぼう》も便利になった。汽車に乗って横行じゃ。倶利伽羅峠に立籠《たてこも》って――御時節がら怪《け》しからん……いずれその風呂敷包みも、たんまりいたした金目のものでございましょうで。」
 黙った三造は、しばらくして、
「お先達
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