たと、彼方《あちら》で言います――それなり茫となって、まあ、すやすやと寐入《ねい》ったも同じ事で。たとい門口に倒れていたって、茎《じく》が枯れたというんじゃなし、姿の萎《しぼ》んだだけなんです……露が降りれば、ひとりでにまた、恍惚《うっとり》と咲いて覚める、……殊に不思議な花なんですもの。自然の露がその唇に点滴《したた》らなければ点滴らないで、その襟の崩れから、ほんのり花弁《はなびら》が白んだような、その人自身の乳房から、冷い甘いのを吸い上げて、人手は藉《か》らないでも、活返《いきかえ》るに疑いない。
 私は――膝へ、こう抱き起して、その顔を見た咄嗟《とっさ》にも、直ぐにそう考えました。――
 こりゃ余計な事をしたか。自分がこの人を介抱しようとするのは、眠った花を、さあ、咲け、と人間の呼吸《いき》を吹掛けるも同一《おんなじ》だと。……
 で、懐中《ふところ》の宝丹でも出すか、じたばた水でも探してからなら、まだしもな処を、その帯腰から裾《すそ》が、私に起こされて、柔かに揺れたと思うと、もう睫毛《まつげ》が震えて来た。糸のように目を開《あ》いたんですから、しまった! となお思ったんです――まるで、夕顔の封じ目を、不作法に指で解いたように。
 はッとしながら、玉を抱いた逆上《のぼ》せ加減で、おお、山蟻《やまあり》が這《は》ってるぞ、と真白《まっしろ》な咽喉《のど》の下を手で払《はた》くと、何と、小さな黒子《ほくろ》があったんでしょう。
 逆《さかさ》に温かな血の通うのが、指の尖《さき》へヒヤリとして、手がぶるぶるとなった、が、引込《ひっこ》める間もありません。婦《おんな》がその私の手首を、こう取ると……無意識のようじゃありましたが、下の襟を片手で取って、ぐいと胸さがりに脇へ引いて、掻合《かきあ》わせたので、災難にも、私の手は、馥郁《ふくいく》とものの薫る、襟裏へ縫留められた。
 さあ、言わないことか、花弁《はらびら》の中へ迷込んで、虻《あぶ》め、蜿《もが》いても抜出されぬ。
 困窮と云いますものは、……
 黙っちゃいられませんから、
(御免なさいよ。)
 と、のっけから恐入った。――その場の成行きだったんですな。――」
「いかにも、」
 と先達は、膝に両手を重ねながら、目を据えるまで聞入るのである。
「黙っています。が、こう、水の底へ澄切ったという目を開いて、じっと膝を枕に、腕《かいな》に後毛《おくれげ》を掛けたまま私を見詰める。眉が浮くように少し仰向《あおむ》いた形で、……抜けかかった櫛《くし》も落さず、動きもしません。
 黙っちゃいられませんから、
(気がついたんですか。失礼を、)
 まだ詫《わび》をする工合《ぐあい》の悪さ。でも、やっぱり黙っています。
(気分はどうなんです。ここに倒れていなすったんだが。)
 これで分ったろう、放したまえ、早く擦抜けようと、もじつくのが、婦《おんな》の背《せな》を突いて揺《ゆすぶ》るようだから、慌ててまた窘《すく》まりましたよ。どこを糸で結んで手足になったか、女の身体《からだ》がまるで綿で……」

       十八

「綿で……重いことは膝が折れそう――もっともこの重いのは、あの昔話の、怪《あやし》い者が負《おぶ》さると途中で挫《ひし》げるほどに目貫《めかた》がかかるっていう、そんなのじゃない。そりゃ私にも分っていましたが、……
 ああ、これはなぜ私が介抱したか、その人はどうしていたか、そんな事なんぞ言ってるんではまだるッこい。
(失礼しました、今何です、貴女の胸に蟻が這っていたもんですから、)
 つい払って上げよう、と触ったんだ、とてっきりそれがために、そんな様子で居るんだろう、と気が着いて、言訳をしましたがね。
 黙っています……ちっとも動かないで、私の顔を、そのまま見詰めてるじゃありませんか。」
 と三造は先達の顔を瞻《みまも》って、
「じゃ、まだ気が遠くなったままで、何も聞えんのかと思えば、……顔よりは、私が何か言うその声の方が、かえってその人の瞳に映るような様子でしょう。梔子《くちなし》の花でないのは、一目見てもはじめから分ってます。
 弱りました。汗が冷く、慄気《ぞっ》と寒い。息が発奮《はず》んで、身内が震う処から、取ったのを放してくれない指の先へ、ぱっと火がついたように、ト胸へ来たのは、やあ!こうやって生血を吸い取る……」
「成程、成程、いずれその辺で、大慨|気絶《ひきつ》けてしまうのでござろう。」
 と先達は合点《がってん》する。
「転倒《てんどう》しても気は確《たしか》で、そんなら、振切っても刎上《はねあが》ったかと言えば、またそうもし得ない、ここへ、」
 境は帯を圧《おさ》えつつ、
「天女の顔の刺繍《ほりもの》して、自分の腰から下はさながら羽衣の裾になってる姿でしょう。退
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