《しめつ》けられる心地がした。
十五
けれども、まだ幸《さいわい》に俯向《うつむ》けに投出されぬ。
「触らぬ神に祟《たたり》なし……」
非常な場合に、極めて普通な諺《ことわざ》が、記憶から出て諭す。諭されて、直ぐに蹈出《ふみだ》して去ろうとしたが……病難、危難、もしや――とすれば、このまま見棄つべき次第でない。
境は後髪《うしろがみ》を取って引かれた。
洋傘《こうもり》を支《つ》いて、おずおずその胸に掛けた異形の彫刻物をまた視《なが》めた。――今しがた、ちぎれ雲の草を掠《かす》めて飛んだごとく、山伏にて候ものの、ここを過《よぎ》った事は確《たしか》である。
確で、しかもその顔には、この鬼の面を被《かぶ》っていた。――時に、門口へ露《あら》われた婦人《おんな》の姿を鼻の穴から覗《のぞ》いたと云うぞ。待てよ、縄張際の坂道では、かくある我も、ために尠《すくな》からず驚かされた。
おお、それだと、たとい須磨《すま》に居ても、明石《あかし》に居ても、姫御前《ひめごぜ》は目をまわそう。
三造は心着いて、夕露の玉を鏤《ちりば》めた女の寝姿に引返した。
「鬼じゃ。」
試みに山伏の言《ことば》を繰返して、まさしく、怯《おびや》かされたに相違ないと思った。
「鬼じゃ。……」
と一足出てまた呟《つぶや》いたが、フト今度は、反対に、人を警《いまし》むる山伏の声に聞えた。勿《なか》れ、彼は鬼なり、我に与えし予言にあらずや。
境は再び逡巡した。
が、凝《じっ》と瞻《みつ》めて立つと、衣《きぬ》の模様の白い花、撫子の俤《おもかげ》も、一目の時より際立って、伏隠《ふしかく》れた膚《はだ》の色の、小草《おぐさ》に搦《から》んで乱れた有様。
手に触ると、よし蛇の衣《きぬ》とも変《な》らば化《な》れ、熱いと云っても月は抱《いだ》く。
三造は重い廂《ひさし》の下に入って、背に盤石《ばんじゃく》を負いながら、やっと婦《おんな》の肩際に蹲《しゃが》んだのである。
耳許はずれに密《そ》と覗《のぞ》く。俯向《うつむ》けのその顔斜めなれば、鼻かと思うのがすっとある、ト手を翳《かざ》しもしなかったが、鬢《びん》の毛が、霞のように、何となく、差寄せた我が眉へ触るのは、幽《かすか》に呼吸《いき》がありそうである。
「令嬢《じょうさん》。」
とちょっと低声《こごえ》に呼んだ――爪《つま》はずれ、帯の状《さま》、肩の様子、山家《やまが》の人でないばかりか、髪のかざりの当世さ、鬢の香さえも新しい。
「嬢さん、嬢さん――」
とやや心易げに呼活《よびい》けながら、
「どうなすったんですか。」
とその肩に手を置いたが、花弁《はなびら》に触るに斉《ひと》しい。
三造は四辺《あたり》を見て、つッと立って、門口から、真暗《まっくら》な家《や》の内へ、
「御免。」
「ほう……」
と響いたので、はっと思うと、ううと鳴って谺《こだま》と知れた。自分の声が高かった。
「誰も居ないな。」
美女の姿は、依然として足許に横《よこた》わる。無慚《むざん》や、片頬《かたほ》は土に着き、黒髪が敷居にかかって、上ざまに結目《むすびめ》高う根が弛《ゆる》んで、簪《かんざし》の何か小さな花が、やがて美しい虫になって飛びそうな。
しかし、煙にもならぬ人を見るにつけて、――あの坂の途中に、可厭《いや》な婆と二人居て手を掉《ふ》ったことを思うと、ほとんど世を隔てた感がある。同時に、渠等《かれら》怪しき輩《やから》が、ここにかかる犠牲《いけにえ》のあるを知らせまいとして、我を拒んだと合点さるるにつけて、とこう言う内に、追って来て妨《さまたげ》しょう。早く助けずば、と急心《せきごころ》に赫《かっ》となって、戦《おのの》く膝を支《つ》いて、ぐい、と手を懸ける、とぐったりした腕《かいな》が柔かに動いて、脇明《わきあけ》を辷《すべ》った手尖《てさき》が胸へかかった処を、ずッと膝を入れて横抱きに抱《いだ》き上げると、仰向《あおむ》けに綿を載《の》せた、胸がふっくりと咽喉《のど》が白い。カチリと音して、櫛《くし》が鬼の面に触ったので……慌てて、かなぐり取って、見当も附けず、どん、と背後《うしろ》へ投《ほう》った。
「山伏め、何を言う!」
十六
「いや、もう、先方《さき》が婦人《おんな》にもいたせ、男子《おとこ》にもいたせ、人間でさえありますれば、手前は正《しょう》のもの鬼でござる。――狼《おおかみ》が法衣《ころも》より始末が悪い。世間では人の皮着た畜生と申すが、鬼の面を被《かぶ》った山伏は、さて早や申訳がない。」
御堂《みどう》の屋根を蔽《おお》い包んだ、杉の樹立の、廂《ひさし》を籠《こ》めた影が射《さ》す、炉《ろ》の灰も薄蒼《うすあお》う、茶を煮る火の色の※[#「
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