らりと、首桶《くびおけ》か、骨瓶《こつがめ》か、風呂敷包を一包《ひとつつみ》提げていた。
境が、上から伸懸《のしかか》るようにして差覗《さしのぞ》くと、下で枯枝のような手を出した。婆がその手を、上に向けて、横ざまに振って見せた。
確《たしか》に暗号《あいず》に違いない、しかも自分にするのらしい。
「ええ。」
胸倉を取って小突かれるように、強く此方《こなた》へ応《こた》えるばかりで、見るなか、行《ゆ》けか、去れだか、来いだか、その意味がさっぱり分らぬ。その癖、烏が横啣《よこぐわ》えにして飛びそうな、厭《いや》な手つきだとしみじみ感じた。
十四
その内に……婆の手の傍《かたわら》から薄《すすき》が靡《なび》いて、穂のような手が動いた。密《そっ》と招いて、胸を開くと、片袖を掻込《かいこ》みながら、腕《かいな》をしなやかに、その裾《すそ》のあたりを教えた。
そこへ下りて来よ、と三造に云うのである――
意味は明《あきら》かに、しかも優しく、美《うるわ》しく通じたが、待て、なぜ下へ降りよ、と諭す?
峠を越すな、進んではならぬ、と言うか。自分|我《われ》にしか云うものが、婦人《おんな》の身でどうして来た、……さて降りたらば何とする? ずんずん行《ゆ》けば何とする?
すべてかかる事に手間|隙《ひま》取って、とこうするのが魔が魅《さ》すのである。――構わず行《ゆ》こう。
「何だ。」
谿間《たにま》の百合の大輪《おおりん》がほのめくを、心は残るが見棄てる気構え。踵《くびす》を廻らし、猛然と飛入るがごとく、葎《むぐら》の中に躍込んだ。ざ、ざ、ざらざらと雲が乱れる。
山路に草を分ける心持は、水練を得たものが千尋の淵《ふち》の底を探るにも似ていよう。どっと滝を浴びたように感じながら、ほとんど盲蛇《めくらへび》でまっしぐらに突いて出ると、颯《さっ》と開けた一場の広場。前面にぬっくり立った峯の方へなぞえに高い、が、その峰は倶利伽羅の山続きではない。越中の立山が日も月も呑んで真暗《まっくら》に聳《そび》えたのである。ちょうど広場とその頂との境に、一条《ひとすじ》濃い靄《もや》が懸《かか》った、靄の下に、九十九谷《つくもだに》に介《はさ》まった里と、村と、神通《じんつう》、射水《いみず》の二|大川《だいせん》と、富山の市《まち》が包まるる。
さればこそ思い違えた、――峠の立場《たてば》はここなので。今し猿ヶ馬場ぞと認めたのは、道を急いだ目の迷い、まだそこまでは進まなかったのであった。
紫に桔梗《ききょう》の花を織出した、緑は氈《せん》を開いたよう。こんもりとした果《はて》には、山の痩《や》せた骨が白い。がばと、またさっくりと、見覚えた岩も見ゆる。一本の柿、三本の栗、老樹《おいき》の桃もあちこちに、夕暮を涼みながら、我を迎うる風情に彳《たたず》む。
と見れば鍵屋は、礎《いしずえ》が動いたか、四辺《あたり》の地勢が露出《むきだ》しになったためか、向う上りに、ずずんと傾き、大船を取って一|艘《そう》頂に据えたるごとく、厳《おごそか》にかつ寂しく、片廂《かたびさし》をぐいと、山の端《は》から空へ離して、舳《みよし》の立った形して、立山の波を漕がんとす。
境は可懐《なつかし》げに進み寄った。
「や!」
その門口《かどぐち》に、美しい清水が流るる。いや、水のような褄《つま》が溢《こぼ》れて、脇明《わきあけ》の肌ちらちらと、白い撫子《なでしこ》の乱咲《みだれざき》を、帯で結んだ、浴衣の地の薄《うす》お納戸。
すらりと草に、姿横に、露を敷いて、雪の腕《かいな》力なげに、ぐたりと投げた二の腕に、枕すともなく艶《つやや》かな鬢《びん》を支えた、前髪を透く、清らかな耳許《みみもと》の、幽《かすか》に洩《も》るる俯向《うつむ》き形《なり》、膝を折って打伏した姿を見た。
冷い風が、衝《つ》と薫って吹いたが、キキと鳴く鼬《いたち》も聞えず、その婦人《おんな》が蝦蟇《がま》にもならぬ。
耳が赫《かっ》と、目ばかり冴《さ》える。……冴えながら、草も見えず、家も暗い。が、その癖、件《くだん》の姿ばかりは、がっくり伸ばした頸《うなじ》の白さに、毛筋が揃って、後《おく》れ毛のはらはらと戦《そよ》ぐのまで、瞳に映って透通る。
これを見棄てては駆抜けられない。
「もし……」
と言いもあえず、後方《あと》へ退《さが》って、
「これだ!」
とつい出た口許を手で圧える。あとから、込上げて、突《つッ》ぱじけて、
「……顔を見ると……のっぺらぼう――」
と思わずまた独言《ひとりごと》。我が声ながら、変に掠《かす》れて、まるで先刻《さっき》の山伏の音《おん》。
「今も今、手を掉《ふ》った……ああ、頻《しき》りに留めた……」
と思うと、五体を取って緊附
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