の野を、天上|遥《はる》かに仰いだ風情。
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西山日没東山昏《せいざんひはぼっしてとうざんくらし》。旋風吹馬馬蹈雲《せんぷううまをふきうまくもをふむ》。――
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 低声《こごえ》に唱いかけて、耳を澄ますと、鐸の音《ね》は梢《こずえ》を揺《ゆす》って、薄暗い谷に沈む。

       十三

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女巫澆酒雲満空《じょふさけをそそぐくもくうにみつ》。玉炉炭火香鼕鼕《ぎょくろたんかにおいとうとう》。海神山鬼来座中《かいしんさんきざちゅうにきたる》。紙銭※[#「穴かんむり/悉」、387−9]※[#「穴かんむり/卒」、第4水準2−83−16]鳴※[#「風にょう+旋のつくり」、387−16]風《しせんしつそつせんぷうになる》。相思木帖金舞鸞《そうしぼくちょうきんぶらん》。
※[#「てへん+讚のつくり」、第3水準1−85−6]蛾一※[#「口+睫のつくり」、387−18]重一弾《さんがいっそうまたいったん》。呼星召鬼※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]杯盤《ほしをよびおにをめしはいばんをきんす》。山魅食時人森寒《さんみくらうときひとしんかんす》。
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 境の足は猿ヶ馬場に掛《かか》った。今や影一つ、山の端《は》に立つのである。
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終南日色低平湾《しゅうなんのにっしょくわんにひくし》。神兮長有有無間《かみやとこしなえにうむのあいだにあり》。
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 越《こし》の海は、雲の模様に隠れながら、青い糸の縫目を見せて、北国《ほっこく》の山々は、皆|黄昏《たそがれ》の袖を連ねた。
「神兮長に有無の間にあり。」
 胸を見ると、背中まで抜けそうな眼《まなこ》が濶《かっ》と、鬼の面が馬場を睨《にら》んで、ここにも一人神が彳《たたず》む、三造は身自から魔界を辿《たど》る思《おもい》がある。
 峠のこの故道《ふるみち》は、聞いたよりも草が伸びて、古沼の干た、蘆《あし》の茂《しげり》かと疑うばかり、黄にも紫にも咲交じった花もない、――それは夕暮のせいもあろう。が第一に心懸けた、目標《めじるし》の一軒家は靄《もや》も掛《かか》らぬのに屋根も分らぬ。
 場所が違ったかとも怪しんだ、けれども、蹈迷《ふみまよ》う路続きではない。でいよいよ進むとしたが、ざわざわ分入らねばならぬ雑草に遮られて、いざ、と言う前、しばらくを猶予《ためら》うて立つと、風が誘って、時々さらさらさらさらと、そこらの鳴るのが、虫の声の交らぬだけ、余計に響く。……
 ひょっこり肌脱の若衆《わかいしゅ》が、草鞋穿《わらじばき》で出て来そうでもあるし、続いて、山伏がのさのさと顕《あら》われそうにもある。大方人の無い、こんな場所へ来ると、聞いた話が実際の姿になって、目前《めさき》へ幻影《まぼろし》に出るものかも知れぬ。
 現にそれ、それそれ、若衆が、山伏が、ざわざわと出て、すっと通る――通ると……その形が幻を束《つか》ねた雲になって、颯《さっ》と一つ谷へ飛ぶ。程もあらせず、むっくりと湧《わ》いて来て、ふいと行《ゆ》くと、いつの間にか、草の上へちぎれちぎれに幾つも出る。中には動かずに凝《じっ》と留まって、裾《すそ》の消えそうな山伏が、草の上に漂々として吹かれもやらず浮くのさえある。
 またふわりと来て、ぱっと胸に当って、はっとすると、他愛《たわい》もなく、形なく力もなく、袖を透かして背後《うしろ》へ通る。
 三造は誘われて、ふらふらとなって、ぎょっとしたが、つらつら見ると、むこうに立った雲の峰が、はらはらと解けて山中へ拡がりつつ、薄《すすき》の海へ波を乱して、白く飜って、しかも次第に消えるのであった。
「ああ、そうか……」
 山伏は大跨《おおまた》で、やがて麓《ふもと》へ着いた時分、と、足許《あしもと》の杉の梢《こずえ》にかかった一片《ひとひら》の雲を透かして、里|可懐《なつかし》く麓を望んだ……時であった。
 今昇った坂|一畝《ひとうね》り下《さが》た処、後前《あとさき》草がくれの径《こみち》の上に、波に乗ったような趣して、二人並んだ姿が見える――斉《ひとし》く雲のたたずまいか、あらず、その雲には、淡いが彩《いろどり》があって、髪が黒く、俤《おもかげ》が白い。帯の色も、その立姿の、肩と裾を横に、胸高に、細《ほっそ》りと劃《くぎ》って濃い。
 道は二町ばかり、間は隔《へだた》ったが、翳《かざ》せばやがて掌《てのひら》へ、その黒髪が薫りそう。直ぐ眉の下に見えたから、何となく顔立ちの面長《おもなが》らしいのも想像された。
 同時に、その傍《かたわら》のもう一人、瞳を返して、三造は眉を顰《ひそ》めた。まさしく先刻の婆《ばば》らしい。それが、黒い袖の桁《ゆき》短かに、皺《しわ》の想わるる手をぶ
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