》げた、――と申す。
 若衆は話の中《うち》も、わなわなと歯の根が合わぬ。
(生血《いきち》を吸われた、お先達、ほう、腕が冷い、氷のようじゃ。)
 と引被《ひっかぶ》せてやりました夜具の襟から手を出して、情《なさけ》なさそうに、銀の指環を視《なが》める処が、とんと早や大病人でな。
 お不動様の御像《おすがた》の前へ、かんかん燈明を点じまして、その夜《よ》は一晩、私《てまえ》が附添ったほどでござります。
 峠越し汽車に乗って帰ると云うたで、その夜は帰らないのを、村の者も、さまで案じずにいましたげな。午《ひる》過ぎてから四五人連立って様子を見に参ったのが、通りがかり、どやどや御堂《みどう》へ立寄りましたに因って、豪傑はその連中に引渡して、事済んだでございます。
 が、唯今《ただいま》もお尋ねの肝腎のその怪《あやし》い婦人が、姿容《すがたかたち》、これがそれ御殿女中と申す一件――振袖《ふりそで》か詰袖《つめそで》か、裙《すそ》模様でも着てござったか、年紀《とし》ごろは、顔立は、髪は、島田とやらか、それとも片はずしというようなことかと、委《くわ》しく聞いてみたでございますが、当人その辺はまるで見境《みさかい》がございません。
 何でも御殿女中は御殿女中で、薄ら蒼《あお》いにどこか黄味がかった処のある衣物《きもの》で、美しゅう底光りがしたと申す。これはな、蟇の色が目に映って、それが幻に出たらしい。
 して見ると、風説《うわさ》を聞いて、風説の通り、御殿女中、と心得たので、その実|確《たしか》にどんな姿だか分りませぬ。
 さあ、是沙汰《これざた》は大業《おおぎょう》で、……
[#ここから5字下げ]
(朝|疾《と》う起きて空見れば、
   口紅つけた上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》が、)
[#ここで字下げ終わり]
 と村の小児《こども》は峠を視《なが》める。津幡川《つばたがわ》を漕《こ》ぐ船頭は、(笄《こうがい》さした黒髪が、空から水に映る)と申す、――峠の婦人《おんな》は、里も村も、ちらちらと遊行《ゆぎょう》なさるる……」

       十

「その替り村里から、この山へ登るものは、ばったり絶えたでありましてな。」
「それで、」
聞惚《ききと》れていた三造は、ここではじめて口を入れたが、
「貴下《あなた》が、探険――山開きをなさいましたんですね。」
 先達は額に手を当て、膨れた懐中《ふところ》を伏目に覗《のぞ》いて、
「御意で、恐縮をいたします……さような行力《ぎょうりき》がありますかい。はッはッ、もっとも足は達者で、御覧の通り日和下駄《ひよりげた》じゃ、ここらは先達めきましたな。立山《たてやま》、御嶽《おんたけ》、修行にならば這摺《はいず》っても登りますが、秘密の山を人助けに開こうなどとはもっての外の事でござる。
 また早い話が、この峠を越さねばと申して、多勢《たぜい》のものが難渋をするでもなし、で、聞いたままのお茶話。秋にでもなって、朝ぼらけの山の端《は》に、ふと朝顔でも見えましたら、さてこそさてこそ高峰《たかね》の花と、合点《がってん》すれば済みます事。
 処を、年効《としがい》もない、密《そっ》と……様子が見たい漫《そぞ》ろ心で、我慢がならず企てました。
 それにいたせ、飛んだ目には逢いとうござらん心得から、用心のために思いつきましたはこの一物、な、御覧の通り、古くから御堂《みどう》の額面に飾ってござります獅噛面《しかみおもて》、――待て待て対手《あいて》は何にもせよ、この方鬼の姿で参らば、五枚錣《ごまいじころ》を頂いたも同然、同じ天窓《あたま》から一口でも、変化《へんげ》の口に幅ったかろうと、緒だけ新しいのを着けたやつを、苛高《いらだか》がわりに手首にかけて、トまず、金剛杖を突立てて、がたがたと上りました。約束通り、まず何事もなく、峠へかかったでござります。」
「猿ヶ馬場へ、」
「さようで、立場《たてば》の焼跡へ、」
「はあ成程。」
「縄張のあります処から、ここぞともはや面《おもて》を装い、チャクと黒鬼に構えました。
 仔細《しさい》なく、鼻の穴から麓《ふもと》まで見通し、濶《かッ》と睨《にら》んだ大の眼《まなこ》は、ここの、」
 と額に皺《しわ》を寄せて、
「汗を吹抜きの風通《かざとお》し……さして難渋にもござらなんだが、それでも素面のようではない。一人前、顔だけ背負《しょ》って歩行《ある》く工合で、何となく、坂路が捗取《はかど》りません。
 馬場《ばんば》へ懸《かか》ると、早や日脚が摺《ず》って、一面に蔭った上、草も手入らずに生え揃うと、綺麗《きれい》に敷くでござりましてな、成程、早咲の桔梗《ききょう》が、ちらほら。ははあ、そこらが埋《うもれ》井戸か……薄《すすき》がざわざわと波
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