を打つ。またその風の冷たさが、颯《さっ》と魂を濯《あら》うような爽快《さわや》いだものではなく、気のせいか、ぞくぞくと身に染みます。
 おのれ、と心《しん》をまず丹田《たんでん》に落《おち》つけたのが、気ばかりで、炎天の草いきれ、今鎮まろうとして、這廻《はいまわ》るのが、むらむらと鼠色に畝《うね》って染めるので、変に幻の山を踏む――下駄の歯がふわふわと浮上る。
 さあ、こうなると、長し短し、面被《めんかぶ》りでござるに因って、眼《がん》は明《あかる》いが、面《つら》は真暗《まっくら》、とんと夢の中に節穴を覗《のぞ》く――まず塩梅《あんばい》。
 それ、躓《つまず》くまい、見当を狂わすなと、俯向《うつむ》きざまに、面をぱくぱく、鼻の穴で撓《た》める様子が、クン、クンと嗅《か》いで、
(やあ人臭いぞ。)
 と吐《ほざ》きそうな。これがさ、峠にただ一人で遣《や》る挙動《ふるまい》じゃ、我ながら攫《さら》われて魔道を一人旅の異変な体《てい》。」
「まったく……ですね。」
 と三造は頷《うなず》いたのである。
「な、貴辺《あなた》、こりゃかような態《ざま》をするのが、既にものに魅せられたのではあるまいか。はて、宙へ浮いて上《あが》るか、谷へ逆様《さかさま》ではなかろうか、なぞと怯気《おじけ》がつくと、足が窘《すく》んで、膝がっくり。
 ヤ、ヤ、このまんまで、窮《いきつ》いては山車《だし》人形の土用干――堪《たま》らんと身悶《みもだ》えして、何のこれ、若衆《わかいしゅ》でさえ、婦人《おんな》の姿を見るまでは、向顱巻《むこうはちまき》が弛《ゆる》まなんだに、いやしくも行者の身として、――」

       十一

「ごもっともですね。」
 ちとこれが不意だったか、先達は、はたと詰《つま》って、擽《くすぐっ》たい顔色《がんしょく》で、
「痛入《いたみい》ります、いやしくも行者の身として……そのしだらで、」
 境は心着いて、気の毒そうに、
「いいえ、いいえ。」
「何、私《てまえ》もその気で仰有《おっしゃ》ったとは存じませぬがな、はッはッはッ。
 笑事《わらいごと》ではござらぬ。うむとさて、勇気を起して、そのまま駆下りれば駆下りたでありますが、せっかくの処へ運んだものを、ただ山を越えたでは、炬燵櫓《こたつやぐら》を跨《また》いだ同然、待て待て禁札を打って、先達が登山の印を残そうと存じましたで、携えました金剛を、一番|突立《つった》てておこう了簡《りょうけん》。
 薄《すすき》の中へぐいと入れたが、ずぶりと参らぬ。草の根が張って、ぎしぎしいう、こじったが刺《ささ》りません。えいと杖の尖《さき》で捏《こ》ねる内に、何の花か、底光りがして艶《つや》を持った黄色いのが、右の突捲《つきまく》りで、薄《すすき》なりに、ゆらゆら揺れたと思うと、……」
「おお!」
「得も言われぬ佳《い》い匂《におい》がしました。はてな、あの一軒家の戸口を覗《のぞ》くと、ちらりと見えた――や、その艶麗《あでやか》なことと申すものは。――
 時ならぬ月が廂《ひさし》から衝《つ》と出たように、ぱっと目に映るというと、手も足も突張りました。
 必ず、どんな姿で、どんな顔立じゃなぞとお尋ね御無用。まだまだ若衆の方が間違いにもいたせ、衣服《きもの》の色合だけも覚えて来たのが目っけものじゃ。いやはや、私《てまえ》の方はただ颯《さっ》と白いものが一軒家の戸口に立ったと申すまでで――衣服が花やら、体が雪やら、さような事は真暗三宝《まっくらさんぽう》、しかも家の内の暗い処へ立たれた工合《ぐあい》が、牛か、熊にでも乗られたようでな、背が高い。
(鬼じゃ、)
 と、私《てまえ》一つ大声を上げました。
(鬼じゃ、鬼じゃ。)
 と、こうぬっと腕を突張《つっぱ》った。金剛杖《こんごうづえ》を棄置いて、腰の据《すわ》らぬ高足を※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と踏んで、躍上《おどりあが》るようにその前を通った、が、可笑《おかし》い事には、対方《さき》が女性《にょしょう》じゃに因って、いつの間にか、自分ともなく、名告《なのり》が慇懃《いんぎん》になりましてな。……
(鬼でござる。)
 と夢中で喚《わめ》いて、どうやら無事に、猿ヶ馬場は抜けました。で、後はこの坂一なだれ、転げるように駆下りたでございます。――
 処で、先刻の不調法、」
 と息を吐《つ》き、
「何とも、恥を申さぬと理が聞えませぬ、仔細《しさい》はこうでござります――が、さて同一《おなじ》人間……も変なれども、この際……とでも申すかな、その貴辺《あなた》を前に置いて、今お話をしまする段になるというと、いや、我ながらあんまりな慌て方、此方《こなた》こそ異形を扮装《いでたち》をしましたけれども、彼方《あなた》は何にせよ女体でござる。風
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