い。
さあ、その風説《うわさ》が立ちますと、それからこっち両三年、悪いと言うのを強いて越して、麓《ふもと》へ下りて煩うのもあれば、中には全く死んだもござる。……」
「まったく?」
とハタと巻莨《まきたばこ》を棄てて、境は路傍《みちばた》へ高く居直る。
行者は、掌《てのひら》で、鐸《すず》の蓋《ふた》して、腰を張って、
「さればその儀で。――
隣村も山道半里、谷戸《やと》一里、いつの幾日《いつか》に誰が死んで、その葬式《とむらい》に参ったというでもござらぬ、が杜鵑《ほととぎす》の一声で、あの山、その谷、それそれに聞えまする。
地体、一軒家を買取った者というのも、猿じゃ、狐じゃ、と申す隙《ひま》に、停車場前の、今、餅屋で聞くか、その筋へ出て尋ねれば、皆目知れぬ事はござるまい。が、人間そこまではせぬもので、火元は分らず、火の粉ばかり、わッぱと申す。
さらぬだに往来の途絶えた峠、怪《あやし》い風説があるために、近来ほとんど人跡が絶果てました。
ところがな、ついこの頃、石動在の若者、村相撲の関を取る力自慢の強がりが、田植が済んだ祝酒の上機嫌、雨霽《あまあが》りで元気は可《よし》、女|小児《こども》の手前もあって、これ見よがしに腕を扼《さす》って――己《おら》が一番見届ける、得物なんぞ、何、手掴《てづか》みだ、と大手を振って出懸けたのが、山路へかかって、八ツさがりに、私《わし》ども御堂《みどう》へ寄ったでござります。
そこで、御神酒《おみき》を進ぜました。あびらうんけんそわかと唱えて、押頂いて飲んだですて……
(お気をつけられい。)
と申して石段を送って出ますと、坂へ立身上《たつみあが》りに片足を踏伸ばいて、
(先達、訳あねえ。)
と向顱巻《むこうはちまき》したであります――はてさて、この気構えでは、どうやら覚束《おぼつか》ないと存じながら、連《つれ》にはぐれた小相撲という風に、源氏車の首抜《くびぬき》浴衣の諸肌脱《もろはだぬぎ》、素足に草鞋穿《わらじばき》、じんじん端折《ばしょり》で、てすけとくてく峠へ押上《おしのぼ》る後姿《うしろつき》を、日脚なりに遠く蔭るまで見送りましたが、何が、貴辺《あなた》、」
「え、その男は?」
八
先達は渋面して、
「まず生命《いのち》に別条のないばかり、――日が暮れましたで、私《てまえ》御本堂へだけ燈明を点《つ》けました。で、縁の端で……されば四日頃の月をこう、」
手廂《てびさし》して、
「森の間《あい》から視《なが》めていますと、けたたましい音を立てて、ぐるぐる舞いじゃ、二三度|立樹《たちき》に打着《ぶつか》りながら、件《くだん》のその昼間の妖物《ばけもの》退治が、駆込んで参りました。
(お先達、水を一口、)
と云うと、のめずって、低い縁へ、片肱《かたひじ》かけたなり尻餅を支《つ》いたが、……月明りで見るせいではござらん、顔の色、真蒼《まっさお》でな。
すぐに岩清水を月影に透かして、大茶碗に汲《く》んで進ぜた。
(明王のお水でござる……しっかりなされ。)
と申したが、こっちで口へ当《あて》がってやらずには、震えて飲めなんだでござります。
やっと人心地になった処で、本堂|傍《わき》の休息所へ連込みました。
処で様子を尋ねると、(そ、その森の中、垣根越、女の姿がちらちらする、わあ、追懸《おっか》けて来た、入って来る……閉めて欲《ほし》い。)と云うで、ばたばた小窓など塞《ふさ》ぎ、赫《かっ》と明《あかる》くとも参らんが、煤《すす》けたなりに洋燈《ランプ》も点《つ》けたて。
少々落着いての話では――勢《いきおい》に任せて、峠をさして押上った、途中別に仔細《しさい》はござらん。元来《もともと》、そこから引返そうというではなく、猿ヶ馬場を、向うへ……
というのが、……こちらで、」
と煙管の尖《さき》で草を圧《おさ》え、
「峠越し竹の橋へ下りて、汽車で帰ろう了簡《りょうけん》。ただただ、山一つ越せば可《い》いわ、で薄《すすき》、焼石《やけいし》、踏《ふみ》だいに、……薄暮合《うすくれあい》――猿ヶ馬場はがらんとして、中に、すッくりと一軒家が、何か大牛が蟠《わだか》まったような形。人が開けたとは受取れぬ、雨戸が横に一枚と、入口の大戸の半分ばかり開いた様子が、口をぱくりと……それ、遣《や》った塩梅《あんばい》。根太ごと、がたがたと動出しもし兼ねんですて。
そいつを睨《にら》みつけて、右の向顱巻《むこうはちまき》、大肌脱で通りかかると、キチキチ、キチキチと草が鳴る……いや、何か鳴くですじゃ、……
蟋蟀《きりぎりす》にしては声が大《おおき》いぞ――道理かな、鼬《いたち》、かの鼬な。
鼬でござるが、仰向《あおむ》けに腹を出して、尻尾をぶるぶると遣って、同一《おなじ
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