ました。」
「どんな事ですか。」
 少し急込《せきこ》んで聞きながら、境は楯《たて》に取った上坂《のぼりざか》を見返った。峠を蔽《おお》う雲の峰は落日の余光《なごり》に赤し。
 行者の頬も夕焼けて、
「順に申さんと余り唐突でございますで――一体かようでございます。
 峠で力餅《ちからもち》を売りました、三四軒茶屋|旅籠《はたご》のございました、あの広場《ひろッぱ》な、……俗に猿ヶ|馬場《ばんば》――以前|上下《のぼりくだり》の旅人で昌《さか》りました時分には、何が故に、猿ヶ馬場だか、とんと人力車の置場のようでござりましたに、御存じの汽車が、この裾《すそ》を通るようになりましてからは、富山の薬売、城端《じょうはな》のせり呉服も、碌《ろく》に越さなくなりまして、年一年、その寂れ方というものは、……それこそまた、猿《えて》どもが寄合場《よりあいば》になったでございます。
 ところで、峠の茶屋連中、山家《やまが》ものでも商人《あきんど》は利に敏《さと》い――名物の力餅を乾餅《かきもち》にして貯えても、活計《くらし》の立たぬ事に疾《はや》く心着いて、どれも竹の橋の停車場前へ引越しまして、袖無しのちゃんちゃんこを、裄《ゆき》の長い半纏《はんてん》に着換えたでござります。さて雪国の山家とて、桁《けた》梁《うつばり》厳丈《がんじょう》な本陣|擬《まがい》、百年|経《た》って石にはなっても、滅多に朽ちる憂《うれい》はない。それだけにまた、盗賊の棲家《すみか》にでもなりはせぬか、と申します内に、一夏、一日《あるひ》晩方から、や、もう可恐《おそろし》く羽蟻《はあり》が飛んで、麓《ふもと》一円、目も開《あ》きませぬ。これはならぬ、と言う、口へ入る、鼻へ飛込む。蚊帳を釣っても寝床の上をうようよと這廻《はいまわ》る――さ、その夜あけ方に、あれあれ峠を見され、羽蟻が黒雲のように真直《まっすぐ》に、と押魂消《おったまげ》る内、焼けました。
 残ったのがたった一軒。
 いずれ、山※[#「てへん+峠のつくり」、第3水準1−84−76]《やまかせ》ぎのものか、乞食どもの疎※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》であろう。焼残った一軒も、そのままにしておいては物騒じゃに因って、上段の床の間へ御仏像でも据えたなら、構《かまえ》は大《おおき》い。そのまま題にして、倶利伽羅山焼残寺《くりからざんしょうざんじ》が一院、北国名代《ほっこくなだい》の巡拝所――
 と申す説もござりました。」

       七

「ところが、買手が附いたのでござりましてな。随分広い、山ぐるみ地所附だと申す事で。」
 行者がちょいと句切ったので、
「別荘にでもなりましたか。」
 煙管《きせる》を揮《ふ》って、遮るごとく、
「いや、その儀なら仔細《しさい》はござらん、またどこの好事《ものずき》じゃと申して、そんな峠へ別荘でもござりますまい。……まず理窟は措《お》いて、誰だか買主が分らぬでございます。第一その話がござってから、二人や、三人、ぽつぽつ峠を越したものもございますが、一向に人の住んでいる様子は見えぬという事で。ただ稀代なのは、いつの間にやら雨で洗ったように、焼跡《やけあと》らしい灰もなし、焚《もえ》さしの材木一本|横《よこた》わっておらぬばかりか、大風で飛ばしたか、土礎石《どだいいし》一つ無い。すらりと飯櫃形《いびつなり》の猿ヶ|馬場《ばんば》に、吹溜《ふきた》まった落葉を敷いて、閑々と静まりかえった、埋《うも》れ井戸には桔梗《ききょう》が咲き、薄《すすき》に女郎花《おみなえし》が交ったは、薄彩色《うすさいしき》の褥《しとね》のようで、上座《かみくら》に猿丸太夫、眷属《けんぞく》ずらりと居流れ、連歌でもしそうな模様じゃ。……(焼撃《やきうち》をしたのも九十九折《つづらおり》の猿が所為《しわざ》よ、道理こそ、柿の樹と栗の樹は焼かずに背戸へ残したわ。)……などと申す。
 山家徒《やまがであい》でござるに因って、何か一軒家を買取ったも、古猿の化けた奴《やつ》。古《むかし》この猿ヶ馬場には、渾名《あだな》を熊坂《くまさか》と言った大猿があって、通行の旅人を追剥《おいはが》し、石動《いするぎ》の里へ出て、刀の鍔《つば》で小豆餅《あずきもち》を買ったとある、と雪の炉端《ろばた》で話が積《つも》る。
 トそこら白いものばっかりで、雪上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ゆきじょうろう》は白無垢《しろむく》じゃ……なんぞと言う処から、袖裾《そですそ》が出来たものと見えまして、近頃峠の古屋には、世にも美しい婦《おんな》が住《すま》う。
 人が通ると、猿ヶ馬場に、むらむらと立つ、靄《もや》、霞、霧の中に、御殿女中の装いした婦《おんな》の姿がすっと立つ――
 見たものは命がな
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