きか》うあたりは、目に見えぬ木《こ》の葉が舞い、霧が降る。
 涼しさが身に染みて、鐸か、声か、音か、蜩《ひぐらし》の、と聞き紛《まが》うまで恍惚《うっとり》となった。目前《めのさき》に、はたと落ちた雲のちぎれ、鼠色の五尺の霧、ひらひらと立って、袖擦れにはっと飛ぶ。
「わっ。」
 と云って、境は驚駭《おどろき》の声を揚げた。
 遮る樹立の楯《たて》もあらず、霜夜に凍《い》てたもののごとく、山路へぬっくと立留まった、その一団の霧の中に、カラカラと鐸が鳴ったが、
「ほう――」
 と梟《ふくろ》のような声を発した。面《つら》赭黒《あかぐろ》く、牙《きば》白く、両の頬に胡桃《くるみ》を噛《か》み破《わ》り、眼《まなこ》は大蛇《おろち》の穴のごとく、額の幅約一尺にして、眉は栄螺《さざえ》を並べたよう。耳まで裂けた大口を開《あ》いて、上から境を睨《ね》め着けたが、
「これは、」
 と云う時、かっしと片腕、肱《ひじ》を曲げて、その蟹《かに》の甲羅《こうら》を面形《めんがた》に剥《は》いで取った。
 四十余りの総髪《そうがみ》で、筋骨|逞《たく》ましい一漢子《いっかんし》、――またカラカラと鳴った――鐸の柄を片手に持換えながら、
「思いがけない処にござった。とんと心着きませんで、不調法。」
 と一揖《いちゆう》して、
「面です……はははは面でござる。」
 と緒を手首に、可恐《おそろし》い顔は俯向《うつむ》けに、ぶらりと膝に飜ったが、鉄で鋳たらしいその厳《おごそか》さ。逞ましい漢《おのこ》の手にもずしりとする。
「お驚きでございましたろうで、恐縮でござります。」
「はあ、」
 と云うと、一刎《ひとは》ね刎ねたままで、弾機《ぜんまい》が切れたようにそこに突立《つった》っていた身構《みがまえ》が崩れて、境は草の上へ投膝《なげひざ》で腰を落して、雲が日和下駄《ひよりげた》穿《は》いた大山伏を、足の爪尖《つまさき》から見上げて黙る。
「別に、お怪我《けが》は?」
 手を出して寄って来たが、腰でも抱こう様子に見えた。
「怪我なんぞ。」
 境は我ながら可笑《おかし》くなって、
「生命《いのち》にも別条はありません。」
「重畳《ちょうじょう》でござる。」
 と云う、落着いて聞くと、声のやや掠《かす》れた人物。
「しかし大丈夫、立派な処を御目に懸けました。何ですか、貴下《あなた》は、これから、」
「さよう、竹の橋をさして下山いたすでございます、貴辺《あなた》はな。」
 境は振向いて峠を仰いだ。目を突くばかりの坂の葎《むぐら》に、竹はすっくと立っている。

       六

「ええ、日脚は十分、これから峠をお越しになっても、夏の日は暮れますまい――が、その事でござる、……さよう、その儀に就いて、」
 境の前に蹲《しゃが》んだ時、山伏は行衣《ぎょうえ》の胸に堆《うずたか》い、鬼の面が、襟許《えりもと》から片目で睨《にら》むのを推入《おしい》れなどして、
「実は、貴辺《あなた》よりも私《てまえ》がお恥かしい。臆病《おくびょう》から致いてかようなものを持出しましたで。
 それと申すが、やはりこの往来止の縄張でございまするがな。ここばかりではのうて、峠を越しました向うの坂、石動《いするぎ》から取附《とッつき》の上《のぼ》り口にも、ぴたりと封じ目の墨があるでござります。
 仔細《しさい》あって、私《てまえ》は、この坂を貴辺《あなた》、真暗三宝《まっくらさんぼう》駆下りましたで、こちらのこの縄張は、今承りますまで目にも入らず、貴辺がお在《いで》なさる姿さえ心着かなんだでござります。
 が、あちらのは、風説《うわさ》にも聞きますれば、私《てまえ》も見ました、と申しますのが、そこからさまで隔てませぬ、石動の町をこの峠の方へ、人里離れました処に、山籠《やまごも》りを致しております。」
 不動堂の先達だと云う。それでその鐸《すず》も、雲のような行衣も解《よ》めた。
「御免下され、」
 とここで、鐸を倒《さかさま》に腰にさして、袂《たもと》から、ぐったりした、油臭い、叺《かます》の煙草入《たばこいれ》を出して、真鍮《しんちゅう》の煙管《きせる》を、ト隔てなく口ごと持って来て、蛇の幻のあらわれた、境の吸う巻莨《まきたばこ》で、吸附けながら、
「赫《かっ》と気ばかり上《のぼ》って、ざっと一日、好《すき》な煙草もよう喫《の》みません。世に推事《おしごと》というは出来ぬもので、これがな、腹に底があってした事じゃと、うむと堪《こら》えるでござりましょうが、好事《ものずき》半分の生兵法《なまびょうほう》、豪《えら》く汗を掻《か》きました。」
「峠に何事があったんですか。」
「されば。」
 すぱすぱと二三服、さも旨《うま》そうに立続けに行者は、矢継早に乙矢《おとや》を番《つが》えて、
「――ござい
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