に描かれた遠里《とおざと》の果《はて》なる海の上に、落ち行《ゆ》く日の紅《くれない》のかがみに映って、そこに蟠《わだかま》った雲の峰は、海月《くらげ》が白く浮べる風情。蟻を列《なら》べた並木の筋に……蛙のごとき青田《あおた》の上に……かなたこなた同じ雲の峰四つ五つ、近いのは城の櫓《やぐら》、遠きは狼煙《のろし》の余波《なごり》に似て、ここにある身は紙鳶《たこ》に乗って、雲の桟《かけはし》渡る心地す。
 これから前《さき》は、坂が急に嶮《けわし》くなる。……以前車の通った時も、空《から》でないと曳上《ひきあ》げられなかった……雨降りには滝になろう、縦に薬研形《やげんがた》に崩込《くずれこ》んで、人足の絶えた草は、横ざまに生え繁って、真直《まっすぐ》に杖《つえ》ついた洋傘《こうもり》と、路の勾配との間に、ほとんど余地のないばかり、蔦蔓《つたかずら》も葉の裏を見上げるように這懸《はいかか》る。
 それは可《い》い。
 かほどの処を攀上《よじのぼ》るのに、あえて躊躇《ちゅうちょ》するのではなかったが、ふとここまで来て、出足を堰止《せきと》められた仔細《しさい》がある。
 山の中の、かかる処に、流灌頂《ながれかんちょう》ではよもあるまい。路の左右と真中《まんなか》へ、草の中に、三本の竹、荒縄を結渡《ゆいわた》したのが、目の前を遮った、――麓《ふもと》のものの、何かの禁厭《まじない》かとも思ったが、紅紙《べにがみ》をさした箸《はし》も無ければ、強飯《こわめし》を備えた盆も見えぬ。
「可訝《おかし》いな。」
 考えるまでもない、手取《てっと》り早く有体《ありてい》に見れば、正にこれ、往来|止《どめ》。
 して見ると、先刻《さっき》、路を塞《ふさ》いで彳《たたず》んだ、媼《ばば》の素振《そぶり》も、通りがかりに小耳に挟んだ言《ことば》の端にも、深い様子があるのかも知れぬ。……土地の神が立たせておく、門番かとも疑われる。
 が、往来止だで済ましてはいられぬ。もしその意味に従えば、……一寸先へも出られぬのである。
 もっとも時|経《た》ったか、竹も古びて、縄も中弛《なかだる》みがして、草に引摺《ひきず》る。跨《また》いで越すに、足を挙ぐるまでもなかったけれども、路に着けた封印は、そう無雑作には破れなかった。
 前後《あとさき》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しながら、密《そっ》とその縄を取って曳《ひ》くと、等閑《なおざり》に土の割目に刺したらしい、竹の根はぐらぐらとして、縄がずるずると手繰《たぐ》られた。慌てて放して、後へ退《さが》った。――一対の媼《ばば》が、背後《うしろ》で見張るようにも思われたし、縄張の動く拍子に、矢がパッと飛んで出そうにも感じたのである。
 いや、名にし負う倶利伽羅で、天にも地にもただ一人、三造がこの挙動《ふるまい》は、われわれ人間としては尋常事《ただごと》ではない。手に汗を握る一大事であったが、山に取っては、蝗《いなご》が飛ぶほどでもなかろう。
 境は、今の騒ぎで、取落した洋傘《こうもり》の、寂しく打倒《ぶったお》れた形さえ、まだしも娑婆《しゃば》の朋達《ともだち》のような頼母《たのも》しさに、附着《くッつ》いて腰を掛けた。
 峰から落し、谷から推《お》して、夕暮が次第に迫った。雲の峰は、一刷《ひとはけ》刷いて、薄黒く、坊主のように、ぬっと立つ。
 日が蔭って、草の青さの増すにつけ、汗ばんだ単衣《ひとえ》の縞《しま》の、くっきりと鮮明《あざやか》になるのも心細い――山路に人の小ささよ。
 蜻蛉《とんぼ》でも来て留まれば、城の逆茂木《さかもぎ》の威厳を殺《そ》いで、抜いて取っても棄《す》つべきが、寂寞《じゃくまく》として、三本竹、風も無ければ動きもせず。
 蜩《ひぐらし》の声がする…………

       五

 カラカラと谺《こだま》して、谷の樹立《こだち》を貫ぬき貫ぬき、空へ伝わって、ちょっと途絶えて、やがて峰の方《かた》でカラカラとまた声が響く。
 と、蜩の声ばかりでなく、新《あらた》に鐸《すず》の音《ね》が起ったのである。
 ちりりんりんと――しかり、鐸を鳴らす、と聞いただけで、夏の山には、行者の姿が想像されて、境は少からず頼母《たのも》しかった。峠には人が居る。
 その実、山霊が奏《かな》でるので、次第々々に雲の底へ、高く消えて行《ゆ》く類《たぐい》の、深秘な音楽ではあるまいか、と覚束《おぼつか》なさに耳を澄ますと、確《たしか》に、しかも、段々に峰から此方《こなた》に近くなる。
 蜩がそれに競わんとするごとく、また頻《しきり》に鳴き出す――足許《あしもと》の深い谷から、その銀《しろがね》の鈴を揺上《ゆりあ》げると、峠から黄金《こがね》の鐸を振下ろして、どこで結ばるともなく、ちりりりと行交《ゆ
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