なこ》は黄金《こがね》、髯《ひげ》白銀《しろがね》の、六尺有余の大彫像、熊坂長範《くまさかちょうはん》を安置して、観音扉《かんのんびらき》を八文字に、格子も嵌《は》めぬ祠《ほこら》がある。ために字《あざな》を熊坂とて、俗に長範の産地と称《とな》える、巨盗の出処は面白い。祠は立場《たてば》に遠いから、路端《みちばた》の清水の奥に、蒼《あお》く蔭り、朱に輝く、活《い》けるがごとき大盗賊の風采《ふうさい》を、車の上からがたがたと、横に視《なが》めて通った事こそ。われ御曹子《おんぞうし》ならねども、この夏休みには牛首を徒歩《かちあるき》して、菅笠《すげがさ》を敷いて対面しょう、とも考えたが、ああ、しばらく、この栗殻の峠には、謂《い》われぬ可懐《なつかし》い思出《おもいで》があったので、越中境《えっちゅうざかい》へ足を向けた。――
処を、牛の首に出会ったために、むしろその方が興味があったかも知れないと、そぞろに心の迷った端《はな》を、隠身寂滅《おんしんじゃくめつ》、地獄が消えた牛妖《ぎゅうよう》に、少なからず驚かされた。
正体が知れてからも、出遊の地に二心《ふたごころ》を持って、山霊を蔑《ないがしろ》にした罪を、慇懃《いんぎん》にこの神聖なる古戦場に対《むか》って、人知れず慚謝《ざんしゃ》したのであるる。
立向う山の茂《しげり》から、額を出して、ト差覗《さしのぞ》く状《さま》なる雲の峰の、いかにその裾《すそ》の広く且つ大なるべきかを想うにつけて、全体を鵜呑《うのみ》にしている谷の深さ、山の高さが推量《おしはか》られる。
辿《たど》るほどに、洋傘《こうもり》さした蟻《あり》のよう――蝉の声が四辺《あたり》に途絶えて、何の鳥かカラカラと啼《な》くのを聞くと、ちょっとその嘴《くちばし》にも、人間は胴中《どうなか》を横啣《よこぐわ》えにされそうであった。
谷が分れて、森が涼しい。
右手《めて》の谷の片隅に、前《さき》に見た牛の小家が、小さくなって、樹立《こだち》ありとも言わず、真白《まっしろ》に日が当る。
やがて、二|分《ぶ》が処|上《のぼ》った。
坂路に……草刈か、鎌は持たず。自然薯穿《じねんじょほり》か、鍬《くわ》も提げず。地柄《じがら》縞柄《しまがら》は分らぬが、いずれも手織らしい単放《ひとえ》を裙《すそ》短《みじか》に、草履|穿《ばき》で、日に背いたのは緩《ゆるや》かに腰に手を組み、日に向ったのは額に手笠で、対向《さしむか》って二人――年紀《とし》も同じ程な六十左右《むそじそこら》の婆々《ばば》が、暢気《のんき》らしく、我が背戸に出たような顔色《かおつき》して立っていた。
山逕《さんけい》の磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]《ぎょうかく》、以前こそあれ、人通りのない坂は寸裂《ずたずた》、裂目に草生い、割目に薄《すすき》の丈伸びたれば、蛇《へび》の衣《きぬ》を避《よ》けて行《ゆ》く足許《あしもと》は狭まって、その二人の傍《わき》を通る……肩は、一人と擦れ擦れになったのである。
ト境の方に立ったのが、心持|身体《からだ》を開いて、頬《ほお》の皺《しわ》を引伸《ひんのば》すような声を出した。
「この人はや。」
「おいの。」
と皺枯れた返事を一人が、その耳の辺《あたり》の白髪《しらが》が動く。
「どこの人ずら。」
「さればいの。」
と聞いた時、境は早や二三間、前途《むこう》へ出ていた。
で、別に振り返ろうともしなかった――気に留めるまでもない、居まわりには見掛けない旅の姿を怪しんで、咎《とが》めるともなく、声高に饒舌《しゃべ》ったろう、――それにつけても、余り往来《ゆきき》のないのは知れた。
けれども、それからというものは、遠い樹立の蔭に、朦朧《もうろう》と立ったり、間近な崖へ影が射《さ》したり、背後《うしろ》からざわざわと芒《すすき》を掻分《かきわ》ける音がしたり、どうやら、件《くだん》の二人の媼《おうな》が、附絡《つきまと》っているような思《おもい》がした。ざっと半日の余、他《ほか》に人らしいものの形を見なかったために、何事もない一対の白髪首が、深く目に映って消えなかった、とまず見える。
四
蜩《ひぐらし》が谷になって、境は杉の梢《こずえ》を踏む。と峠は近い。立向う雲の峰はすっくと胴を顕《あら》わして、灰色に大《おおい》なる薄墨《うすずみ》の斑《まだら》を交え、動かぬ稲妻を畝《うね》らした状《さま》は凄《すさま》じい。が、山々の緑が迫って、むくむくとある輪廓《りんかく》は、霄《おおぞら》との劃《くぎり》を蒼《あお》く、どこともなく嵐気《らんき》が迫って、幽《かすか》な谷川の流《ながれ》の響きに、火の雲の炎の脈も、淡く紫に彩られる。
また振返って見れば、山の裾と中空との間に挟まって、宙
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