《かぶ》さっていようというんで、それこそ猿が宙返りでもしなければ上れそうにもなし、一方口はその長土間でしょう、――今更|遁出《にげだ》そうッたって隙《すき》があるんじゃなし、また遁げようと思ったのでもないが、さあ、静《じっ》としていられないから、手近の障子をがたりと勢《いきおい》よく開けました。……何か命令をされたようで、自分|気儘《きまま》には、戸一枚も勝手を遣っては相成らんような気がしていたのでありますけれども……
 すると貴下《あなた》、何とその横縁に、これもまた吃驚《びっくり》だ。私のいかがな麦藁帽《むぎわらぼう》から、洋傘《こうもり》、小さな手荷物ね。」
「やあやあ、」
「それに、貴下《あなた》が打棄《うっちゃ》っておいでなすったと聞きました、その金剛杖《こんごうづえ》まで、一揃《ひとそろい》、驚いたものの目には、何か面当《つらあて》らしく飾りつけたもののように置いてある。……」
 山伏ぐんなりして、
「いやもう、凡慮の及ぶ処でござらん。黙って承りましょう、そこで?」
「処へ、母屋から跫音《あしおと》が響いて来て、浅茅生《あさぢう》を颯々《さっさっ》、沓脚《くつぬぎ》で、カタリと留《や》むと、所在紛らし、谷の上の靄《もや》を視《なが》めて縁に立った、私の直ぐ背後《うしろ》で、衣摺《きぬず》れが、はらりとする。
 小さな咳《しわぶき》して、
(今に月が出ますと、ちっとは眺望《ながめ》になりますよ。)
 と声を掛けます。はて違うぞ、と上から覗《のぞ》くように振向く。下に居て、そこへ、茶盆を直した処、俯向《うつむ》いた襟足が、すっきりと、髪の濃いのに、青貝摺《あおがいずり》の櫛が晃《きら》めく、鬢《びん》も撫《なで》つけたらしいが、まだ、はらはらする、帯はお太鼓にきちんと極《き》まった、小取廻《こどりまわ》しの姿の好《よ》さ。よろけ縞《じま》の明石《あかし》を透いて、肩から背《せな》がふっくりと白かった――若い方の婦人《おんな》なんです。
 お馴染《なじみ》の貴婦人だとばかり、不意を喰《くら》って、
(いらっしゃい。)
 と調子を外ずして、馬鹿な言《こと》を、と思ったが、仕方なしに笑いました。で、照隠《てれかく》しに勢《いきおい》よく煙草盆《たばこぼん》の前へ坐る……
(お邪魔に出ましてございます。)
 莞爾《にっこり》して顔を上げた、そのぱっちりしたのをやや細
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