《の》きも引きもならんです。いや、ならんのじゃない、し得なかったんです――お先達、」
 と何か急《せ》きながら言淀《いいよど》んで、
「話に聞いた人面瘡《じんめんそう》――その瘡《かさ》の顔が窈窕《ようちょう》としているので、接吻《キッス》を……何です、その花の唇を吸おうとした馬鹿ものがあったとお思いなさい。」
 と云うと、先達は落着いた面色《おももち》で、
「人面瘡、ははあ、」
 さも知己《ちかづき》のような言いぶりで、
「はあ、人面瘡、成程、その面《つら》が天人のように美しい。芙蓉《ふよう》の眦《まなじり》、丹花の唇――でござったかな、……といたして見ると……お待ちなさい、愛着《あいじゃく》の念が起って、花の唇を……ふん、」
 と仰向《あおむ》いて目を瞑《ねむ》ったが、半眼になって、傾きざまに膝を密《そ》と打ち、
「津々《しんしん》として玉としたたる甘露の液と思うのが、実は膿汁《うみしる》といたした処で、病人の迷うのを、強《あなが》ち白痴《たわけ》とは申されん、――むむ、さようなお心持でありましたか。」
 真顔で言われると、恥じたる色して、
「いいえ、心持と言うよりも、美人を膝に抱《いだ》いたなり、次第々々に化石でもしそうな、身動きのならんその形がそうだったんです。……
 段々|孤家《ひとつや》の軒が暗くなって、鉄板で張ったような廂《ひさし》が、上から圧伏《おっぷ》せるかと思われます……そのまま地獄の底へ落ちて行《ゆ》くかと、心も消々《きえぎえ》となりながら、ああ、して見ると、坂下で手を掉《ふ》った気高い女性《にょしょう》は、我らがための仏であった。――
 この難を知って、留められたを、推して上ったはまだしも、ここに魔物の倒れたのを見た時、これをその犠牲《いけにえ》などと言う不心得。
 と俯向《うつむ》いて、熟《じっ》と目を睡《ねむ》ると……歴々《まざまざ》と、坂下に居たその婦《おんな》の姿、――羅《うすもの》の衣紋《えもん》の正しい、水の垂れそうな円髷《まるまげ》に、櫛のてらてらとあるのが目前《めのまえ》へ。――
 驚いた、が、消えません。いつの間にか暮れかかる、海の凪《な》ぎたような緑の草の上へ、渚《なぎさ》の浪のすらすらとある靄《もや》を、爪《つま》さきの白う見ゆるまで、浅く踏んで、どうです、ついそこへ来て、それが私の目の前に立ってるじゃありませんか。私を
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