は無いが、思いがけない、物珍らしさ。そのずんど切《ぎり》な、たらたらと濡れた鼻頭《はなづら》に、まざまざと目を留めると、あの、前世を語りそうな、意味ありげな目で、熟《じっ》と見据えて、むぐむぐと口を動かしざまに、ぺろりと横なめをした舌が円い。
その舌の尖《さき》を摺《す》って、野茨《のばら》の花がこぼれたように、真白《まっしろ》な蝶が飜然《ひらり》と飛んだ。が、角にも留まらず、直ぐに消えると、ぱっと地《じ》の底へ潜《くぐ》った状《さま》に、大牛がフイと失《う》せた。……
失せた……と思う暇もなしに、忽然《こつぜん》として消えたのである。
「や!」
声を出して、三造はきょとんとして、何かに取掴《とッつか》まったらしく、堅くなってそこらを捻向《ねじむ》く……と、峠とも山とも知れず、ただ樹の上に樹が累《かさ》なり、中空を蔽《おお》うて四方から押被《おっかぶ》さって聳《そび》え立つ――その向って行《ゆ》くべき、きざきざの緑の端に、のこのこと天窓《あたま》を出した雲の峯の尖端《とっぱし》が、あたかも空へ飛んで、幻にぽちぽち残った。牛頭に肖《に》たとは愚か。
三造は悚然《ぞっ》とした。
が、遁《に》げ戻るでもなし、進むでもなく、無意識に一足出ると、何、何、何の事もない、牛は依然としてのっそりと居る。
一体、樹の間から湧《わ》いて出たような例の姿を、通りがかりに一見し、瞻《みまも》り瞻り、つい一足|歩行《ある》いた、……その機会《はずみ》に、件《くだん》の桃の木に隠れたので、今でも真正面《まっしょうめん》へちょっと戻れば、立処《たちどころ》にまた消え失《う》せよう。
蝶も牛の背を越したかな……左の胴腹に、ひらひらひら。
「はは、はは。」
独りで笑出した。
「まず昼間で可《よ》かった。夜中にこれを見せられると、申分なく目をまわす。」
三
これより前《さき》、境はふと、ものの頭《かしら》を葉|越《ごし》に見た時、形から、名から、牛の首……と胸に浮ぶと、この栗殻《くりから》とは方角の反対な、加賀と越前《えちぜん》の国境《くにざかい》に、同じ名の牛首がある――その山も二三度越えたが、土地に古代の俤《おもかげ》あり。麓《ふもと》の里に、錣頭巾《しころずき》を取って被《かず》き、薙刀《なぎなた》小脇に掻込《かいこ》んだ、面《つら》には丹《に》を塗り、眼《ま
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