往年《いんぬるとし》、雨上りの朝、ちょうどこの辺《あたり》を通掛《とおりかか》った時、松の雫《しずく》に濡色見せた、紺青《こんじょう》の尾を豊《ゆたか》に、樹《こ》の間の蒼空《あおぞら》を潜《くぐ》り潜り、鵲《かささぎ》が急ぎもせず、翼で真白《まっしろ》な雲を泳いで、すいと伸《の》し、すいと伸して、並木の梢《こずえ》を道づれになった。可懐《なつかし》いその姿を見るのも、またこの旅の一興に算《かぞ》えたのであったから――それを思出して窺《うかが》ったが……今日は見えぬ。
なお前途《ゆくて》の空を視《なが》め視め、かかる日の高い松の上に、蝉の声の喧《かまびす》しい中にも、塒《ねぐら》してその鵲が居はせぬかと、仰いで幹をたたきなどして、右瞻左瞻《とみこうみ》ながら、うかうかと並木を辿《たど》る――大《おおき》な蜻蛉《とんぼ》の、跟《あと》をつけて行《ゆ》くのも知らずに。
やがて樹立が疎《まば》らになって、右左両方へ梢が展《ひら》くと、山の根が迫って来た。倶利伽羅のその風情は、偉大なる雲の峯が裾を拡げたようである。
処へ、横雲の漾《ただよ》う状《さま》で、一叢《ひとむら》の森の、低く目前《めさき》に顕《あら》われたのは、三四軒の埴生《はにゅう》の小屋で。路傍《みちばた》に沿うて、枝の間に梟《ふくろう》の巣のごとく並んだが、どこに礎《いしずえ》を据えたとしもなく、元村から溢《あふ》れて出たか、崖から墜《お》ちて来たか、未来も、過去も、世はただ仮の宿と断念《あきら》めたらしい百姓家――その昔、大名の行列は拝んだかわりに、汽車の煙には吃驚《びっくり》しそうな人々が住んでいよう。
朝夕の糧を兼ねた生垣の、人丈に近い茗荷《みょうが》の葉に、野茨《のばら》が白くちらちら交って、犬が前脚で届きそうな屋根の下には、羽目へ掛けて小枝も払わぬ青葉枯葉、松|薪《まき》をひしと積んだは、今から冬の用意をした、雪の山家と頷《うなず》かれて、見るからに佗《わび》しい戸の、その蜘蛛《くも》の巣は、山姥《やまうば》の髪のみだれなり。
一軒二軒……三軒目の、同じような茗荷の垣の前を通ると、小家《こや》は引込《ひっこ》んで、前が背戸の、早や爪尖《つまさき》あがりになる山路《やまみち》との劃目《しきりめ》に、桃の樹が一株あり、葉蔭に真黒《まっくろ》なものが、牛の背中。
この畜生、仔細《しさい》
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