説《うわさ》の通り、あの峠茶屋の買主の、どこのか好事《ものずき》な御令嬢が住居《すまい》いたさるるでも理は聞える。よしや事あるにもせい、いざと云う時に遁出《にげだ》しましても可《よ》さそうなものじゃったに……
……と申すがやはり、貴辺《あなた》にお目に掛《かか》りましてからの分別で。ぱっと美しいもので目が眩《くら》みました途端には、ただ我を忘れて、
(鬼じゃ。)
と拳《こぶし》を握りました。
これだけでは、よう御合点はなりますまいで、私《てまえ》のその驚き方と申すものは、変った処に艶麗《あでやか》な女中の姿とだけではござらぬ。日の蔭りました、倶利伽羅峠の猿ヶ馬場で、山気《さんき》の凝って鼠色の靄《もや》のかかりました一軒家、廂合《ひあわい》から白昼、時ならぬ月が出たのに仰天した、と、まず御推量が願いたい――いくらか、その心持が……お分りになりましょうかな。」
十二
「分りました。」
と三造は衣紋《えもん》を合わせて、
「何ですか、その一軒家というのは、以前の茶屋なんでしょう、左側の……右側のですか。」
「御存じかな。」
「たびたび通って知っています。」
「ならば御承知じゃ。右側の二軒目で、鍵屋《かぎや》と申したのが焼残っておりますが。」
「鍵屋、――二軒目の。」
と云って境は俯向《うつむ》いた。峠に残った一軒家が、それであると聞くまでは、あるいは先達とともに、旧《もと》来た麓《ふもと》へ引返そうかとも迷ったのである。
が、思う処あって、こう聞くと直ぐに心が極《きま》った。
様子は先達にも見て取られて、
「ええ、鍵屋なら、お上《あが》りになりますかな。」
「別に、鍵屋ならばというのじゃありませんが。これから越します。」
と云って、別離《わかれ》の会釈に頭《つむり》を下げたが、そこに根を生《はや》して、傍目《わきめ》も触《ふ》らず、黙っている先達に、気を引かれずには済まなかった。
「悪いんですか、参っては。」
山伏は押眠った目を瞬いて開けた。三造を右瞻左瞻《とみこうみ》て、
「お待ち下さい。血気に逸《はや》り、我慢に推上《おしのぼ》ろうとなさる御仁なら、お肯入《ききい》れのないまでも、お留め申すが私《てまえ》年効《としがい》ではありますが、お見受け申した処、悪いと言えば、それでもとはおっしゃりそうもない。その御心得なれば別儀ござるまい
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