で、必ず御無用とは申上げん。
 峠でその婦人を見るものは……云々《うんぬん》と恐るべき風説はいたすが、現に、私《てまえ》とても御覧のごとく別条はないようで、……折角じゃ、いっそのことお出《いで》が宜《よろ》しい。」
「ああ、それはどうも難有《ありがた》い。」
 と三造は礼を云う。許されたような気がしたのである。
「さ、さ、」
 先達も立構えで、話の中《うち》に※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》って落した道芝の、帯の端折目《はしょりめ》に散りかかった、三造の裾を二ツ三ツ、煽《あお》ぐように払《はた》いてくれた。
「ところで、」
 顔を振って四辺《あたり》を見た目は、どっちを向いても、峰の緑、処々に雲が白い。
「この日脚じゃ、暮切らぬ内峠は越せます、が坂は暗くなるでござろう。――急ぎの旅ではなかろうで、手前お守《まも》りをいたす、麓《ふもと》の御堂《みどう》で御一泊のように願います。無事にお越しの御様子も伺いたい。留守には誰も居《お》らず、戸棚には夜具一組、蚊帳もござる。
 私《てまえ》は、急いで、竹の橋まで下《くだ》りますで、汽車でぐるりと一廻り、直ぐに石動から御堂へ戻ると、貴辺《あなた》はまだ上りがある。事に因ると、先へ帰って茶を沸《わか》して相待てます。それが宜しい、そうなさって。ああ、御承知か。重畳々々。
 就きましては、」
 かさかさと胸を開いて、仰向《あおむ》けに手に据えた、鬼の面は、紺青《こんじょう》の空に映って、山深き径《こみち》に幽《かすか》なる光を放つ。
「先生方にはただの木の面形《めんがた》でござれども、現に私《てまえ》が試みました。驚破《すわ》とある時、この目を通して何事も御覧が宜しい。さあ、お持ちなさるよう。」
 三造は猶予《ためら》いつつ、
「しかし、御重宝、」
「いや、御役に立てば本懐であります。」
 すなわち取って、帽子をはずして、襟にかける、と先達の手に鐸《すず》が鳴った。
「御無事で、」
「さようなら。」
 蜩《ひぐらし》の声に風|颯《さっ》と、背を押上げらるるがごとく境は頭《こうべ》を峠に上げた。雲の峰は縁《へり》を浅葱《あさぎ》に、鼠色の牡丹《ぼたん》をかさねた、頂白くキラキラと黄金《こがね》の条《すじ》の流れたのは、月がその裡《うち》に宿ったろう。高嶺《たかね》の霞に咲くという、金色《こんじき》の董《すみれ》
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