、膝を頭《ず》の上へ立てて、蠢《うご》めいた頤髯《あごひげ》のある立派な紳士は、附元《つけもと》から引断《ひきき》れて片足ない、まるで不具《かたわ》の蟋蟀《きりぎりす》。
 もう、一面に算を乱して、溝泥《どぶどろ》を擲附《たたきつ》けたような血《のり》の中に、伸びたり、縮んだり、転がったり、何十人だか数が分りません。――
 いつの間にか、障子が透《す》けて、広い部屋の中も同断です。中にも目に着いたのは、一面の壁の隅に、朦朧《もうろう》と灰色の磔柱《はりつけばしら》が露《あら》われて、アノ胸を突反《つきそ》らして、胴を橋に、両手を開いて釣下《つりさが》ったのは、よくある基督《キリスト》の体《てい》だ。
 床柱と思う正面には、広い額の真中《まんなか》へ、五寸釘が突刺さって、手足も顔も真蒼《まっさお》に黄色い眼《まなこ》を赫《かっ》と※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》く、この俤《おもかげ》は、話にある幽霊船《ゆうれいぶね》の船長《ふなおさ》にそっくり。
 大俎《おおまないた》がある、白刃《しらは》が光る、筏《いかだ》のように槍《やり》を組んで、まるで地獄の雛壇《ひなだん》です。
 どれも抱着《だきつ》きもせず、足へも縋《すが》らぬ。絶叫して目を覚ます……まだそれにも及ぶまい、と見い見い後退《あとじさ》りになって、ドンと突当ったまま、蹌踉《よろ》けなりに投出されたように浅茅生《あさぢう》へ出た。
(はああ。)
 と息を引いた、掌《てのひら》へ、脂《あぶら》のごとく、しかも冷い汗が、総身《そうみ》を絞って颯《さっ》と来た。
 例の草清水《くさしみず》がありましょう。
 日蝕《にっしょく》の時のような、草の斑《まだら》に黒い、朦《もう》とした月明りに、そこに蹲《しゃが》んだ男がある。大形の浴衣の諸膚脱《もろはだぬぎ》で、毛だらけの脇を上げざまに、晩方、貴婦人がそこへ投《ほう》った、絹の手巾《ハンケチ》を引伸《ひんの》しながら、ぐいぐいと背中を拭《ふ》いている。
 これは人間らしいと、一足寄って、
(君……)
 と掠《かす》れた声を掛けると、驚いた風にぬっくりと立ったが、瓶《かめ》のようで、胴中《どうなか》ばかり。
(首はないが交際《つきあ》うけえ。)
 と、野太い声で怒鳴《どな》られたので、はっと思うと、私も仰向《あおむ》けに倒れたんです。
 やがて、気のつい
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