たのでございますもの、疑《うたぐ》ってみました日には、当《あて》になりはいたしません。しかしまあ何でございますね、前触《まえぶ》が皆《みんな》勝つことばかりでそれが事実《まったく》なんですから結構で、私《わたくし》などもその話を聞きました当座は、もうもう貴方。」
 と黙って聞いていた判事に強請《ねだ》るがごとく、
「お可煩《うるさ》くはいらっしゃいませんか、」
「悉《くわ》しく聞こうよ。」
 判事は倦《う》める色もあらず、お幾はいそいそして、
「ええどうぞ。条《すじ》を申しませんと解りません。私《わたくし》どもは以前、ただ戦争のことにつきましてあれが御祈祷《ごきとう》をしたり、お籠《こもり》、断食などをしたという事を聞きました時は、難有《ありがた》い人だと思いまして、あんな鼻附でも何となく尊いもののように存じましたけれども、今度のお米のことで、すっかり敵対《むこう》になりまして、憎らしくッて、癪《しゃく》に障ってならないのでございます。
 あんなもののいうことが当になんぞなりますものか。卜《うらない》もくだらない[#「くだらない」に傍点]もあったもんじゃあございません。
 でございますが、難有味《ありがたみ》はなくッても信仰はしませんでも、厭《いや》な奴は厭な奴で、私がこう悪口《あっこう》を申しますのを、形は見えませんでもどこかで聞いていて、仇《あだ》をしやしまいかと思いますほど、気味の悪い爺《じじい》なんでございまして、」
 といいながら日暮際のぱっと明《あかる》い、艶《つや》のないぼやけた下なる納戸に、自分が座の、人なき薄汚れた座蒲団のあたりを見て、婆さんは後《うしろ》見らるる風情であったが、声を低うし、
「全体あの爺は甲州街道で、小商人《こあきんど》、煮売屋ともつかず、茶屋ともつかず、駄菓子だの、柿だの饅頭《まんじゅう》だのを商いまする内の隠居でございまして、私《わたくし》ども子供の内から親どもの話に聞いておりましたが、何でも十六七の小僧の時分、神隠しか、攫《さら》われたか、行方知れずになったんですって。見えなくなった日を命日にしている位でございましたそうですが、七年ばかり経《た》ちましてから、ふいと内の者に姿を見せたと申しますよ。
 それもね、旦那様、まともに帰って来たのではありません。破風《はふ》を開けて顔ばかり出しましたとさ、厭じゃありませんか、正丑《しょううし》の刻だったと申します、」と婆さんは肩をすぼめ、
「しかも降続きました五月雨《さみだれ》のことで、攫《さら》われて参りましたと同一《おんなじ》夜だと申しますが、皺枯《しわが》れた声をして、
(家中《うちじゅう》無事か、)といったそうでございますよ。見ると、真暗《まっくら》な破風の間《あい》から、ぼやけた鼻が覗《のぞ》いていましょうではございませんか。
 皆《みんな》、手も足も縮《すく》んでしまいましたろう、縛りつけられたようになりましたそうでございますが、まだその親が居《お》りました時分、魔道へ入った児《こ》でも鼻を嘗《な》めたいほど可愛かったと申しまする。
(忰《せがれ》、まあ、)と父親《てておや》が寄ろうとしますと、変な声を出して、
 寄らっしゃるな、しばらく人間とは交《まじわ》らぬ、と払い退《の》けるようにしてそれから一式の恩返しだといって、その時、饅頭の餡《あん》の製し方を教えて、屋根からまた行方が解らなくなったと申しますが、それからはその島屋の饅頭といって街道名代の名物でございます。」

       十一

「在り来《きた》りの皮は、麁末《そまつ》な麦の香のする田舎饅頭なんですが、その餡の工合《ぐあい》がまた格別、何とも申されません旨《うま》さ加減、それに幾日《いくか》置きましても干からびず、味は変りませんのが評判で、売れますこと売れますこと。
 近在は申すまでもなく、府中八王子|辺《あたり》までもお土産折詰になりますわ。三鷹《みたか》村深大寺、桜井、駒返《こまかえ》し、結構お茶うけはこれに限る、と東京のお客様にも自慢をするようになりましたでしょう。
 三年と五年の中《うち》にはめきめきと身上《しんしょう》を仕出しまして、家《うち》は建て増します、座敷は拵《こしら》えます、通庭《とおりにわ》の両方には入込《いりごみ》でお客が一杯という勢《いきおい》、とうとう蔵の二|戸前《とまえ》も拵《こしら》えて、初《はじめ》はほんのもう屋台店で渋茶を汲出《くみだ》しておりましたのが俄分限《にわかぶげん》。
 七年目に一度顔を見せましてから毎年五月雨のその晩には、きっと一度ずつ破風《はふ》から覗《のぞ》きまして、
(家中無事か。)おお、厭だ!」と寂しげに笑ってお幾婆さんは身顫《みぶるい》をした。
「その中《うち》親が亡《なく》なって代がかわりました。三人の兄弟で、仁右衛門と申しますあの鼻は、一番の惣領、二番目があとを取ります筈《はず》の処、これは厭じゃと家出をして坊さんになりました。
 そこで三蔵と申しまする、末が家《うち》へ坐りましたが、街道一の家繁昌、どういたして早やただの三蔵じゃあございません、寄合にも上席で、三蔵旦那でございまする。
 誰のお庇《かげ》だ、これも兄者人《あにじゃひと》の御守護のせい何ぞ恩返しを、と神様あつかい、伏拝みましてね、」
 と婆さんは掌《たなそこ》を合せて見せ、
「一《ある》年、やっぱりその五月雨の晩に破風から鼻を出した処で、(何ぞお望《のぞみ》のものを)と申上げますと、(ただ据えておけば可い、女房を一人、)とそういったそうでございます。」
「ふむ、」
「まあ、お聞き遊ばせ、こうなんでございますよ。
 それから何事を差置いても探しますと、ございました。来るものも一生奉公の気なら、島屋でも飼殺しのつもり、それが年寄でも不具《かたわ》でもございません。
(色の白い、美しいのがいいいい。)
 と異な声で、破風口から食好みを遊ばすので、十八になるのを伴《つ》れて参りました、一番目の嫁様は来た晩から呻《うめ》いて、泣煩うて貴方、三月日には痩衰《やせおとろ》えて死んでしまいました。
 その次のも時々悲鳴を上げましたそうですが、二年|経《た》ってやっぱり骨と皮になって、可哀そうにこれもいけません。
 さあ来るものも来るものも、一年たつか二年持つか、五年とこたえたものは居りませんで、九人までなくなったのでございます。
 あるに任して金子《かね》も出したではございましょうが、よくまあ、世間は広くッて八人の九人のと目鼻のある、手足のある、胴のある、髪の黒い、色の白い女があったものだと思いますのでございますよ。十人目に十三年生きていたという評判の婦人《おんな》が一人、それは私《わたくし》もあの辺に参りました時、饅頭を買いに寄りましてちょっと見ましたっけ。
 大柄な婦人《おんな》で、鼻筋の通った、佳《い》い容色《きりょう》、少し凄《すご》いような風ッつき、乱髪《みだれがみ》に浅葱《あさぎ》の顱巻《はちまき》を〆《し》めまして病人と見えましたが、奥の炉《ろ》のふちに立膝をしてだらしなく、こう額に長煙管をついて、骨が抜けたように、がっくり俯向《うつむ》いておりましたが。」

       十二

「百姓家の納戸の薄暗い中に、毛筋の乱れました頸脚《えりあし》なんざ、雪のようで、それがあの、客だと見て真蒼《まっさお》な顔でこっちを向きましたのを、今でも私《わたくし》は忘れません。可哀そうにそれから二年目にとうとう亡《なく》なりましたが、これは府中に居た女郎上りを買って来て置いたのだと申します。
 もうその以前から評判が立っておりましたので、山と積まれてからが金子《かね》で生命《いのち》までは売りませんや、誰も島屋の隠居には片づき人《て》がなかったので、どういうものでございますか、その癖、そうやって、嫁が極《きま》りましても女房が居ましても、家へ顔を出しますのはやっぱり破風《はふ》から毎年その月のその日の夜中、ちょうど入梅《つゆ》の真中《まんなか》だと申します、入梅から勘定して隠居が来たあとをちょうど同一《おんなじ》ように指を折ると、大抵梅雨あけだと噂があったのでございまして。
 実際、おかみさんが出来るようになりましてからも参るのは確《たしか》に年に一度でございましたが、それとも日に三度ずつも来ましたか、そこどこはたしかなことは解りません。
 何にいたしましても、来るものも娶《と》るものも亡くなりましたのは、こりゃ葬式《とむらい》が出ましたから事実《まったく》なんで。
 さあ、どんづまりのその女郎が殺されましてからは、怪我にもゆき人《て》がございません、これはまた無いはずでございましょう。
 そうすると一年、二年、三年と、段々店が寂れまして、家も蔵も旧《もと》のようではなくなりました。一時は買込んだ田地《でんじ》なども売物に出たとかいう評判でございました。
 そうこういたします内に、さよう、一昨年でございましたよ、島屋の隠居が家《うち》へ帰ったということを聞きましたのは。それから戦争の祈祷の評判、ひとしきりは女房一件で、饅頭の餡でさえ胸を悪くしたものも、そのお国のために断食をした、お籠《こもり》をした、千里のさき三年のあとのあとまで見通しだと、人気といっちゃあおかしく聞えますが、また隠居殿の曲った鼻が素直《まっすぐ》になりまして、新聞にまで出まする騒ぎ。予言者だ、と旦那様、活如来《いきにょらい》の扱《あつかい》でございましょう。
 ああ、やれやれ、家《うち》へ帰ってもあの年紀《とし》で毎晩々々|機織《はたおり》の透見をしたり、糸取場を覗《のぞ》いたり、のそりのそり這《は》うようにして歩行《ある》いちゃ、五宿の宿場女郎の張店《はりみせ》を両側ね、糸をかがりますように一軒々々格子戸の中へ鼻を突込《つっこ》んじゃあクンクン嗅《か》いで歩行《ある》くのを御存じないか、と内々私はちっと聞いたことがございますので、そう思っておりましたが、善くは思いませんばかりでも、お肚《なか》のことを嗅ぎつけられて、変な杖でのろわれたら、どんな目に逢おうも知れぬと、薄気味の悪い爺《じじい》なんでございます。
 それが貴方、以前からお米を貴方。」
 と少し言渋りながら、
「跟《つ》けつ廻しつしているのでございます。」と思切った風でいったのである。
「何、お米を、あれが、」と判事は口早にいって、膝を立てた。
「いいえ、あの、これと定ったこともございません、ございませんようなものの、ふらふら堀ノ内様の近辺、五宿あたり、夜更《よふけ》でも行きあたりばったりにうろついて、この辺へはめったに寄りつきませなんだのが、沢井様へお米が参りまして、ここでもまた、容色《きりょう》が評判になりました時分から、藪《やぶ》からでも垣からでも、ひょいと出ちゃああの女《こ》の行《ゆ》くさきを跟《つ》けるのでございます。薄ぼんやりどこにかあの爺が立ってるのを見つけましたものが、もしその歩き出しますのを待っておりますれば、きっとお米の姿が道に見えると申したようなわけでございまして。」

       十三

「おなじ奉公人どもが、たださえ口の悪い処へ、大事|出来《しゅったい》のように言い囃《はや》して、からかい半分、お米さんは神様のお気に入った、いまに緋《ひ》の袴《はかま》をお穿《は》きだよ、なんてね。
 まさかに気があろうなどとは、怪我にも思うのじゃございますまいが、串戯《じょうだん》をいわれるばかりでも、癩病《かったい》の呼吸《いき》を吹懸《ふっか》けられますように、あの女《こ》も弱り切っておりましたそうですが。
 つい事の起ります少し前でございました、沢井様の裏庭に夕顔の花が咲いた時分だと申しますから、まだ浴衣を着ておりますほどのこと。
 急ぎの仕立物がございましたかして、お米が裏庭に向きました部屋で針仕事をしていたのでございます。
 まだ明《あかり》も点《つ》けません、晩方、直《じ》きその夕顔の咲いております垣根のわきがあらい格子。手許《てもと》が暗くなりましたので、袖が触りますばかりに、格子の処へ
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