豆粉《きなこ》をまぶした餅である。
 賤機山《しずはたやま》、浅間《せんげん》を吹降《ふきおろ》す風の強い、寒い日で。寂しい屋敷町を抜けたり、大川《おおかわ》の堤防《どて》を伝ったりして阿部川の橋の袂《たもと》へ出て、俥《くるま》は一軒の餅屋へ入った。
 色白で、赤い半襟《はんえり》をした、人柄《ひとがら》な島田《しまだ》の娘が唯《ただ》一人で店にいた。
 ――これが、名代《なだい》の阿部川だね、一盆おくれ。――
 と精々|喜多八《きだはち》の気分を漾《ただよ》わせて、突出《つきだ》し店の硝子戸《がらすど》の中に飾った、五つばかり装ってある朱の盆へ、突如《いきなり》立って手を掛けると、娘が、まあ、と言った。
 ――あら、看板ですわ――
 いや、正《しょう》のものの膝栗毛《ひざくりげ》で、聊《いささ》か気分なるものを漾《ただよ》わせ過ぎた形がある。が、此処《ここ》で早速|頬張《ほおば》って、吸子《きびしょ》の手酌《てじゃく》で飲《や》った処《ところ》は、我ながら頼母《たのも》しい。
 ふと小用場《こようば》を借りたくなった。
 中戸《なかど》を開けて、土間をずッと奥へ、という娘《ねえ》さんの指図に任せて、古くて大きいその中戸を開けると、妙な建方《たてかた》、すぐに壁で、壁の窓からむこう土間の台所が見えながら、穴を抜けたように鉤《かぎ》の手に一つ曲って、暗い処をふっと出ると、上框《あがりかまち》に縁《えん》がついた、吃驚《びっくり》するほど広々とした茶の間。大々《だいだい》と炉《いろり》が切ってある。見事な事は、大名の一《ひと》たてぐらいは、楽に休めたろうと思う。薄暗い、古畳。寂《せき》として人気《ひとけ》がない。……猫もおらぬ。炉《ろ》に火の気もなく、茶釜も見えぬ。
 遠くで、内井戸《うちいど》の水の音が水底《みなそこ》へ響いてポタン、と鳴る。不思議に風が留《や》んで寂寞《ひっそり》した。
 見上げた破風口《はふぐち》は峠ほど高し、とぼんと野原へ出たような気がして、縁《えん》に添いつつ中土間《なかどま》を、囲炉裡《いろり》の前を向うへ通ると、桃桜《ももさくら》溌《ぱっ》と輝くばかり、五壇《ごだん》一面の緋毛氈《ひもうせん》、やがて四畳半を充満《いっぱい》に雛、人形の数々。
 ふとその飾った形も姿も、昔の故郷の雛によく肖《に》た、と思うと、どの顔も、それよりは蒼白《あおじろ》くて、衣《きぬ》も冠《かむり》も古雛《ふるびな》の、丈《たけ》が二倍ほど大きかった。
 薄暗い白昼《まひる》の影が一つ一つに皆|映《うつ》る。
 背後《うしろ》の古襖《ふるぶすま》が半ば開《あ》いて、奥にも一つ見える小座敷に、また五壇の雛がある。不思議や、蒔絵《まきえ》の車、雛たちも、それこそ寸分《すんぶん》違《たが》わない古郷《ふるさと》のそれに似た、と思わず伸上《のびあが》りながら、ふと心づくと、前の雛壇におわするのが、いずれも尋常《ただ》の形でない。雛は両方さしむかい、官女たちは、横顔やら、俯向《うつむ》いたの。お囃子《はやし》はぐるり、と寄って、鼓《つづみ》の調糸《しらべ》を緊《し》めたり、解《と》いたり、御殿火鉢《ごてんひばち》も楽屋の光景《ありさま》。
 私は吃驚《びっくり》して飛退《とびの》いた。
 敷居の外の、苔《こけ》の生えた内井戸《うちいど》には、いま汲《く》んだような釣瓶《つるべ》の雫《しずく》、――背戸《せど》は桃もただ枝の中《うち》に、真黄色に咲いたのは連翹《れんぎょう》の花であった。
 帰りがけに密《そっ》と通ると、何事もない。襖《ふすま》の奥に雛はなくて、前の壇のも、烏帽子《えぼし》一つ位置のかわったのは見えなかった。――この時に慄然《ぞっ》とした。
 風はそのまま留《や》んでいる。広い河原に霞《かすみ》が流れた。渡れば鞠子《まりこ》の宿《しゅく》と聞く……梅、若菜《わかな》の句にも聞える。少し渡って見よう。橋詰《はしづめ》の、あの大樹《たいじゅ》の柳の枝のすらすらと浅翠《あさみどり》した下を通ると、樹の根に一枚、緋《ひ》の毛氈《もうせん》を敷いて、四隅を美しい河原の石で圧《おさ》えてあった。雛市《ひないち》が立つらしい、が、絵合《えあわせ》の貝一つ、誰《たれ》もおらぬ。唯《と》、二、三|町《ちょう》春の真昼に、人通りが一人もない。何故《なぜ》か憚《はばか》られて、手を触れても見なかった。緋の毛氈は、何処《どこ》のか座敷から柳の梢《こずえ》を倒《さかさま》に映る雛壇の影かも知れない。夢を見るように、橋へかかると、これも白い虹が来て群青《ぐんじょう》の水を飲むようであった。あれあれ雀が飛ぶように、おさえの端《はし》の石がころころと動くと、柔《やわら》かい風に毛氈を捲《ま》いて、ひらひらと柳の下枝《したえだ》に搦《から》む。
 私は愕
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