雛がたり
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雛《ひな》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)実際|六《むつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「祿−示」、第3水準1−84−27]
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 雛《ひな》――女夫雛《めおとびな》は言うもさらなり。桜雛《さくらびな》、柳雛《やなぎびな》、花菜《はなな》の雛、桃の花雛《はなびな》、白と緋《ひ》と、紫《ゆかり》の色の菫雛《すみれびな》。鄙《ひな》には、つくし、鼓草《たんぽぽ》の雛。相合傘《あいあいがさ》の春雨雛《はるさめびな》。小波《ささなみ》軽く袖《そで》で漕《こ》ぐ浅妻船《あさづまぶね》の調《しらべ》の雛。五人囃子《ごにんばやし》、官女《かんじょ》たち。ただあの狆《ちん》ひきというのだけは形も品《しな》もなくもがな。紙雛《かみひいな》、島《しま》の雛、豆雛《まめひいな》、いちもん雛《びな》と数うるさえ、しおらしく可懐《なつかし》い。
 黒棚《くろだな》、御廚子《みずし》、三棚《みつだな》の堆《うずたか》きは、われら町家《ちょうか》の雛壇《ひなだん》には些《ち》と打上《うちあが》り過ぎるであろう。箪笥《たんす》、長持《ながもち》、挟箱《はさみばこ》、金高蒔絵《きんたかまきえ》、銀金具《ぎんかなぐ》。小指ぐらいな抽斗《ひきだし》を開けると、中が紅《あか》いのも美しい。一双《いっそう》の屏風《びょうぶ》の絵は、むら消えの雪の小松に丹頂《たんちょう》の鶴、雛鶴《ひなづる》。一つは曲水《きょくすい》の群青《ぐんじょう》に桃の盃《さかずき》、絵雪洞《えぼんぼり》、桃のような灯《ひ》を点《とも》す。……ちょっと風情《ふぜい》に舞扇《まいおおぎ》。
 白酒《しろざけ》入れたは、ぎやまんに、柳さくらの透模様《すきもよう》。さて、お肴《さかな》には何よけん、あわび、さだえか、かせよけん、と栄螺《さざえ》蛤《はまぐり》が唄になり、皿の縁に浮いて出る。白魚《しらうお》よし、小鯛《こだい》よし、緋《ひ》の毛氈《もうせん》に肖《に》つかわしいのは柳鰈《やなぎがれい》というのがある。業平蜆《なりひらしじみ》、小町蝦《こまちえび》、飯鮹《いいだこ》も憎からず。どれも小さなほど愛らしく、器《うつわ》もいずれ可愛《かわい》いのほど風情《ふぜい》があって、その鯛《たい》、鰈《かれい》の並んだ処《ところ》は、雛壇の奥さながら、竜宮を視《み》るおもい。
 (もしもし何処《どこ》で見た雛なんですえ。)
 いや、実際|六《むつ》、七歳《ななつ》ぐらいの時に覚えている。母親の雛を思うと、遥かに竜宮の、幻のような気がしてならぬ。
 ふる郷《さと》も、山の彼方《かなた》に遠い。
 いずれ、金目《かねめ》のものではあるまいけれども、紅糸《べにいと》で底を結《ゆわ》えた手遊《おもちゃ》の猪口《ちょく》や、金米糖《こんぺいとう》の壷《つぼ》一つも、馬で抱《だ》き、駕籠《かご》で抱《かか》えて、長い旅路を江戸から持って行ったと思えば、千代紙《ちよがみ》の小箱に入った南京砂《なんきんずな》も、雛の前では紅玉《こうぎょく》である、緑珠《りょくしゅ》である、皆《みな》敷妙《しきたえ》の玉《たま》である。
 北の国の三月は、まだ雪が消えないから、節句は四月にしたらしい。冬籠《ふゆごもり》の窓が開《あ》いて、軒《のき》、廂《ひさし》の雪がこいが除《と》れると、北風に轟々《ごうごう》と鳴通《なりとお》した荒海の浪の響《ひびき》も、春風の音にかわって、梅、桜、椿《つばき》、山吹《やまぶき》、桃も李《すもも》も一斉《いちどき》に開いて、女たちの眉《まゆ》、唇、裾八口《すそやつくち》の色も皆《みな》花のように、はらりと咲く。羽子《はご》も手鞠《てまり》もこの頃から。で、追羽子《おいはご》の音、手鞠の音、唄の声々《こえごえ》。
[#ここから3字下げ]
……ついて落《おと》いて、裁形《たちかた》、袖形《そでかた》、御手《おんて》に、蝶《ちょう》や……花。……
[#ここで字下げ終わり]
 かかる折から、柳、桜、緋桃《ひもも》の小路《こみち》を、麗《うらら》かな日に徐《そっ》と通る、と霞《かすみ》を彩《いろど》る日光《ひざし》の裡《うち》に、何処《どこ》ともなく雛の影、人形の影が※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》う、……
 朧夜《おぼろよ》には裳《も》の紅《くれない》、袖《そで》の萌黄《もえぎ》が、色に出て遊ぶであろう。
 ――もうお雛様がお急ぎ。
 と細い段の緋毛氈《ひもうせん》。ここで桐《きり》の箱も可懐《なつか》しそうに抱《だき》しめるよ
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