うに持って出て、指蓋《さしぶた》を、すっと引くと、吉野紙《よしのがみ》の霞《かすみ》の中に、お雛様とお雛様が、紅梅白梅《こうばいはくばい》の面影に、ほんのりと出て、口許《くちもと》に莞爾《にっこ》とし給《たま》う。唯《と》見て、嬉《うれ》しそうに膝に据えて、熟《じっ》と視《み》ながら、黄金《こがね》の冠《かんむり》は紫紐《むらさきひも》、玉の簪《かんざし》の朱《しゅ》の紐を結《ゆ》い参らす時の、あの、若い母のその時の、面影が忘れられない。
そんなら孝行をすれば可《い》いのに――
鼠の番でもする事か。唯《ただ》台所で音のする、煎豆《いりまめ》の香《か》に小鼻を怒《いか》らせ、牡丹《ぼたん》の有平糖《あるへいとう》を狙《ねら》う事、毒のある胡蝶《こちょう》に似たりで、立姿《たちすがた》の官女《かんじょ》が捧《ささ》げた長柄《ながえ》を抜いては叱《しか》られる、お囃子《はやし》の侍烏帽子《さむらいえぼうし》をコツンと突いて、また叱られる。
ここに、小さな唐草蒔絵《からくさまきえ》の車があった。おなじ蒔絵の台を離して、轅《ながえ》をそのままに、後《うしろ》から押すと、少し軋《きし》んで毛氈の上を辷《すべ》る。それが咲乱《さきみだ》れた桜の枝を伝うようで、また、紅《くれない》の霞の浪《なみ》を漕ぐような。……そして、少しその軋む音は、幽《かすか》に、キリリ、と一種の微妙なる音楽であった。仲よしの小鳥が嘴《くちばし》を接《あわ》す時、歯の生際《はえぎわ》の嬰児《あかんぼ》が、軽焼《かるやき》をカリリと噛む時、耳を澄《すま》すと、ふとこんな音《ね》がするかと思う、――話は違うが、(ろうたけたるもの)として、(色白き児《こ》の苺《いちご》くいたる)枕《まくら》の草紙《そうし》は憎い事を言った。
わびしかるべき茎《くく》だちの浸《ひた》しもの、わけぎのぬたも蒔絵の中。惣菜《そうざい》ものの蜆《しじみ》さえ、雛の御前《おまえ》に罷出《まかんづ》れば、黒小袖《くろこそで》、浅葱《あさぎ》の襟《えり》。海のもの、山のもの。筍《たかんな》の膚《はだ》も美少年。どれも、食《くい》ものという形でなく、菜の葉に留《と》まれ蝶《ちょう》と斉《ひと》しく、弥生《やよい》の春のともだちに見える。……
袖形《そでがた》の押絵細工《おしえざいく》の箸《はし》さしから、銀の振出し、という華奢《きゃしゃ》なもので、小鯛《こだい》には骨が多い、柳鰈《やなぎがれい》の御馳走《ごちそう》を思出すと、ああ、酒と煙草《たばこ》は、さるにても極りが悪い。
其角《きかく》句あり。――もどかしや雛に対して小盃《こさかずき》。
あの白酒を、ちょっと唇につけた処《ところ》は、乳《ちち》の味がしはしないかと思う……ちょっとですよ。
――構わず注《つ》ぎねえ。
なんかで、がぶがぶ遣《や》っちゃ話にならない。
金岡《かなおか》の萩《はぎ》の馬、飛騨《ひだ》の工匠《たくみ》の竜《りゅう》までもなく、電燈を消して、雪洞《ぼんぼり》の影に見参らす雛の顔は、実際、唯《と》瞻《み》れば瞬《またた》きして、やがて打微笑《うちほほえ》む。人の悪い官女のじろりと横目で見るのがある。――壇の下に寝ていると、雛の話声《はなしごえ》が聞える、と小児《こども》の時に聞いたのを、私は今も疑いたくない。
で、家中《かちゅう》が寝静まると、何処《どこ》か一ケ所、小屏風《こびょうぶ》が、鶴の羽に桃を敷いて、すッと廻ろうも知れぬ。……御睦《おんむつ》ましさにつけても、壇に、余り人形の数の多いのは風情《ふぜい》がなかろう。
但し、多いにも、少いにも、今私は、雛らしいものを殆ど持たぬ。母が大事にしたのは、母がなくなって後《のち》、町に大火があって皆焼けたのである。一度持出したとも聞くが、混雑に紛《まぎ》れて行方を知らない。あれほど気を入れていたのであるから、大方は例の車に乗って、雛たち、火を免れたのであろう、と思っている。
その後こういう事があった。
なおそれから十二、三年を過ぎてである。
逗子《ずし》にいた時、静岡の町の光景《さま》が見たくって、三月の中《なか》ばと思う。一度|彼処《あすこ》へ旅をした。浅間《せんげん》の社《やしろ》で、釜《かま》で甘酒を売る茶店へ休んだ時、鳩と一所《いっしょ》に日南《ひなた》ぼっこをする婆さんに、阿部川《あべかわ》の川原《かわら》で、桜の頃は土地の人が、毛氈に重詰《じゅうづめ》もので、花の酒宴《さかもり》をする、と言うのを聞いた。――阿部川の道を訊《たず》ねたについてである。――都路《みやこじ》の唄につけても、此処《ここ》を府中《ふちゅう》と覚えた身には、静岡へ来て阿部川|餅《もち》を知らないでは済まぬ気がする。これを、おかしなものの異名だなぞと思われては困る。確かに、
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