然として火を思った。
 何処《どこ》ともなしに、キリリキリリと、軋《きし》る轅《ながえ》の車の響《ひびき》。
 鞠子《まりこ》は霞む長橋《ながばし》の阿部川の橋の板を、あっちこっち、ちらちらと陽炎《かげろう》が遊んでいる。
 時に蒼空《あおぞら》に富士を見た。
 若き娘に幸《さち》あれと、餅屋の前を通過《とおりす》ぎつつ、
 ――若い衆《しゅ》、綺麗《きれい》な娘さんだね、いい婿《むこ》さんが持たせたいね――
 ――ええ、餅屋の婿さんは知りませんが、向う側のあの長い塀、それ、柳のわきの裏門のありますお邸《やしき》は、……旦那、大財産家《だいざいさんか》でございましてな。つい近い頃、東京から、それはそれは美しい奥さんが見えましたよ――
 何とこうした時は、見ぬ恋にも憧憬《あこが》れよう。
 欲《ほし》いのは――もしか出来たら――偐紫《にせむらさき》の源氏雛《げんじびな》、姿も国貞《くにさだ》の錦絵《にしきえ》ぐらいな、花桐《はなぎり》を第一に、藤《ふじ》の方《かた》、紫、黄昏《たそがれ》、桂木《かつらぎ》、桂木は人も知った朧月夜《おぼろづきよ》の事である。
   照りもせず、くもりも果てぬ春の夜《よ》の……
 この辺は些《ちっ》と酔ってるでしょう。



底本:「鏡花短篇集 川村二郎編」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二七巻」岩波書店
   1942(昭和17)年10月
初出:「新小説」
   1917年(大正6年)3月
入力:砂場清隆
校正:松永正敏
2000年8月30日公開
2005年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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