が落ちる。目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、その水中の木材よ、いで、浮べ、鰭《ひれ》ふって木戸に迎えよ、と睨《にら》むばかりに瞻《みつ》めたのでござるそうな。些《ち》と尋常事《ただごと》でありませんな。
詩は唐詩選《とうしせん》にでもありましょうか。」
「どうですか。ええ、何んですって――夢に家門《かもん》に入って沙渚《しゃしょ》に上《のぼ》る。魂《たましい》が沙漠《さばく》をさまよって歩行《ある》くようね、天河落処長洲路《てんがおつるところちょうしゅうのみち》、あわれじゃありませんか。
それを聞くと、私《わたし》まで何んだか、その婦人が、幽閉されているように思います。
それからどうしましたか。」
「どうと申して、段々|頤《おとがい》がこけて、日に増し目が窪《くぼ》んで、顔の色がいよいよ悪い。
或時《あるとき》、大奮発じゃ、と言うて、停車場《ていしゃば》前の床屋へ、顔を剃《そ》りに行《ゆ》かれました。その時だったと申す事で。
頭を洗うし、久しぶりで、些《ちと》心持《こころもち》も爽《さわやか》になって、ふらりと出ると、田舎《いなか》には荒物屋《あらものや》が多いでございます、紙、煙草《たばこ》、蚊遣香《かやりこう》、勝手道具、何んでも屋と言った店で。床店《とこみせ》の筋向《すじむこ》うが、やはりその荒物店《あらものみせ》であります処《ところ》、戸外《おもて》へは水を打って、軒《のき》の提灯《ちょうちん》にはまだ火を点《とも》さぬ、溝石《みぞいし》から往来へ縁台《えんだい》を跨《また》がせて、差向《さしむか》いに将棊《しょうぎ》を行《や》っています。端《はし》の歩《ふ》が附木《つけぎ》、お定《さだま》りの奴で。
用なしの身体《からだ》ゆえ、客人が其処《そこ》へ寄って、路傍《みちばた》に立って、両方ともやたらに飛車《ひしゃ》角《かく》の取替《とりか》えこ、ころりころり差違《さしちが》えるごとに、ほい、ほい、と言う勇ましい懸声《かけごえ》で。おまけに一人の親仁《おやじ》なぞは、媽々衆《かかしゅう》が行水《ぎょうずい》の間、引渡《ひきわた》されたものと見えて、小児《こども》を一人|胡坐《あぐら》の上へ抱いて、雁首《がんくび》を俯向《うつむ》けに銜《くわ》え煙管《ぎせる》。
で銜《くわ》えたまんま、待てよ、どっこい、と言うたびに、煙管《きせる》が打附《ぶつか》りそうになるので、抱かれた児《こ》は、親仁より、余計に額《ひたい》に皺《しわ》を寄せて、雁首《がんくび》を狙《ねら》って取ろうとする。火は附いていないから、火傷《やけど》はさせぬが、夢中で取られまいと振動《ふりうご》かす、小児《こども》は手を出す、飛車を遁《に》げる。
よだれを垂々《たらたら》と垂らしながら、占《しめ》た! とばかり、やにわに対手《あいて》の玉将《たいしょう》を引掴《ひッつか》むと、大きな口をへの字形《じなり》に結んで見ていた赭《あか》ら顔《がお》で、脊高《せいたか》の、胸の大きい禅門《ぜんもん》が、鉄梃《かなてこ》のような親指で、いきなり勝った方の鼻っ頭《ぱしら》をぐいと掴《つか》んで、豪《えら》いぞ、と引伸《ひんの》ばしたと思《おぼ》し召せ、ははははは。」
十八
「大きな、ハックサメをすると煙草《たばこ》を落した。額《おでこ》こッつりで小児《こども》は泣き出す、負けた方は笑い出す、涎《よだれ》と何んかと一緒でござろう。鼻をつまんだ禅門《ぜんもん》、苦々《にがにが》しき顔色《がんしょく》で、指を持余《もてあま》した、塩梅《あんばい》な。
これを機会《しお》に立去ろうとして、振返ると、荒物屋と葭簀《よしず》一枚、隣家《りんか》が間《ま》に合わせの郵便局で。其処《そこ》の門口《かどぐち》から、すらりと出たのが例のその人。汽車が着いたと見えて、馬車、車がらがらと五、六台、それを見に出たものらしい、郵便局の軒下《のきした》から往来を透かすようにした、目が、ばったり客人と出逢ったでありましょう。
心ありそうに、そうすると直ぐに身を引いたのが、隔ての葭簀《よしず》の陰になって、顔を背向《そむ》けもしないで、其処《そこ》で向直《むきなお》ってこっちを見ました。
軒下の身を引く時、目で引《ひき》つけられたような心持《ここち》がしたから、こっちもまた葭簀越《よしずごし》に。
爾時《そのとき》は、総髪《そうはつ》の銀杏返《いちょうがえし》で、珊瑚《さんご》の五分珠《ごぶだま》の一本差《いっぽんざし》、髪の所為《せい》か、いつもより眉が長く見えたと言います。浴衣《ゆかた》ながら帯には黄金鎖《きんぐさり》を掛けていたそうでありますが、揺れてその音のするほど、こっちを透《すか》すのに胸を動かした、顔がさ、葭簀《よしず》を横
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