にちらちらと霞《かすみ》を引いたかと思う、これに眩《めくるめ》くばかりになって、思わずちょっと会釈《えしゃく》をする。
向うも、伏目《ふしめ》に俯向《うつむ》いたと思うと、リンリンと貴下《あなた》、高く響いたのは電話の報知《しらせ》じゃ。
これを待っていたでございますな。
すぐに電話口へ入って、姿は隠れましたが、浅間《あさま》ゆえ、よく聞える。
(はあ、私《わたし》。あなた、余《あんま》りですわ。余《あんま》りですわ。どうして来て下さらないの。怨《うら》んでいますよ。あの、あなた、夜《よ》も寝られません。はあ、夜中に汽車のつくわけはありませんけれども、それでも今にもね、来て下さりはしないかと思って。
私の方はね、もうね、ちょいと……どんなに離れておりましても、あなたの声はね、電話でなくっても聞えます。あなたには通じますまい。
どうせ、そうですよ。それだって、こんなにお待ち申している、私のためですもの……気をかねてばかりいらっしゃらなくても宜《よろ》しいわ。些《ちっ》とは不義理、否《いえ》、父さんやお母さんに、不義理と言うこともありませんけれど、ね、私は生命《いのち》かけて、きっとですよ。今夜にも、寝ないでお待ち申しますよ。あ、あ、たんと、そんなことをお言いなさい、どうせ寝られないんだから可《よ》うございます。怨《うら》みますよ。夢にでもお目にかかりましょうねえ、否《いいえ》、待たれない、待たれない……)
お道《みち》か、お光《みつ》か、女の名前。
(……みいちゃん、さようなら、夢で逢いますよ。)――
きりきりと電話を切ったて。」
「へい、」
と思わず聞惚《ききと》れる。
「その日は帰ってから、豪《えら》い元気で、私《わたし》はそれ、涼しさやと言った句《く》の通り、縁《えん》から足をぶら下げる。客人は其処《そこ》の井戸端《いどばた》に焚《た》きます据風呂《すえぶろ》に入って、湯をつかいながら、露出《むきだ》しの裸体談話《はだかばなし》。
そっちと、こっちで、高声《たかごえ》でな。尤《もっと》も隣近所《となりきんじょ》はござらぬ。かけかまいなしで、電話の仮声《こわいろ》まじりか何かで、
(やあ、和尚《おしょう》さん、梅の青葉から、湯気《ゆげ》の中へ糸を引くのが、月影に光って見える、蜘蛛《くも》が下りた、)
と大気※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《だいきえん》じゃ。
(万歳々々《ばんざいばんざい》、今夜お忍《しのび》か。)
(勿論《もちろん》、)
と答えて、頭のあたりをざぶざぶと、仰《あお》いで天に愧《は》じざる顔色《かおつき》でありました。が、日頃の行《おこな》いから[#「行《おこな》いから」は底本では「行《おこか》いから」]察して、如何《いか》に、思死《おもいじに》をすればとて、いやしくも主《ぬし》ある婦人に、そういう不料簡《ふりょうけん》を出すべき仁《じん》でないと思いました、果せる哉《かな》。
冷奴《ひややっこ》に紫蘇《しそ》の実、白瓜《しろうり》の香《こう》の物《もの》で、私《わたくし》と取膳《とりぜん》の飯を上《あが》ると、帯を緊《し》め直して、
(もう一度そこいらを。)
いや、これはと、ぎょっとしたが、垣《かき》の外へ出られた姿は、海の方へは行《ゆ》かないで、それ、その石段を。」
一面の日当りながら、蝶《ちょう》の羽《は》の動くほど、山の草に薄雲が軽く靡《なび》いて、檐《のき》から透《すか》すと、峰の方は暗かった、余り暖《あたたか》さが過ぎたから。
十九
降ろうも知れぬ。日向《ひなた》へ蛇が出ている時は、雨を持つという、来がけに二度まで見た。
で、雲が被《かぶ》って、空気が湿《しめ》った所為《せい》か、笛太鼓《ふえたいこ》の囃子《はやし》の音が山一ツ越えた彼方《かなた》と思うあたりに、蛙《かえる》が喞《すだ》くように、遠いが、手に取るばかり、しかも沈んでうつつの音楽のように聞えて来た。靄《もや》で蝋管《ろうかん》の出来た蓄音器《ちくおんき》の如く、かつ遥《はるか》に響く。
それまでも、何かそれらしい音はしたが、極めて散漫で、何の声とも纏《まと》まらない。村々の蔀《しとみ》、柱、戸障子《としょうじ》、勝手道具などが、日永《ひなが》に退屈して、のびを打ち、欠伸《あくび》をする気勢《けはい》かと思った。いまだ昼前だのに、――時々牛の鳴くのが入交《いりまじ》って――時に笑い興《きょう》ずるような人声も、動かない、静かに風に伝わるのであった。
フト耳を澄ましたが、直ぐに出家の言《ことば》になって、
「大分《だいぶ》町の方が賑《にぎわ》いますな。」
「祭礼でもありますか。」
「これは停車場《ていしゃば》近くにいらっしゃると承《うけたまわ》りましたに、つい御近所
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