春昼
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お爺《じい》さん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近頃|買求《かいもと》めた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《あぶ》る空に
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一
「お爺《じい》さん、お爺さん。」
「はあ、私《わし》けえ。」
と、一言《ひとこと》で直《す》ぐ応じたのも、四辺《あたり》が静かで他《た》には誰もいなかった所為《せい》であろう。そうでないと、その皺《しわ》だらけな額《ひたい》に、顱巻《はちまき》を緩《ゆる》くしたのに、ほかほかと春の日がさして、とろりと酔ったような顔色《がんしょく》で、長閑《のど》かに鍬《くわ》を使う様子が――あのまたその下の柔《やわらか》な土に、しっとりと汗ばみそうな、散りこぼれたら紅《くれない》の夕陽の中に、ひらひらと入《はい》って行《ゆ》きそうな――暖《あたたか》い桃《もも》の花を、燃え立つばかり揺《ゆす》ぶって頻《しきり》に囀《さえず》っている鳥の音《ね》こそ、何か話をするように聞こうけれども、人の声を耳にして、それが自分を呼ぶのだとは、急に心付《こころづ》きそうもない、恍惚《うっとり》とした形であった。
こっちもこっちで、かくたちどころに返答されると思ったら、声を懸《か》けるのじゃなかったかも知れぬ。
何為《なぜ》なら、さて更《あらた》めて言うことが些《ち》と取《と》り留《と》めのない次第なので。本来ならこの散策子《さんさくし》が、そのぶらぶら歩行《あるき》の手すさびに、近頃|買求《かいもと》めた安直《あんちょく》な杖《ステッキ》を、真直《まっすぐ》に路《みち》に立てて、鎌倉《かまくら》の方へ倒れたら爺《じい》を呼ぼう、逗子《ずし》の方へ寝たら黙って置こう、とそれでも事は済《す》んだのである。
多分《たぶん》は聞えまい、聞えなければ、そのまま通り過ぎる分《ぶん》。余計な世話だけれども、黙《だまり》きりも些《ちっ》と気になった処《ところ》。響《ひびき》の応ずるが如きその、(はあ、私《わし》けえ)には、聊《いささ》か不意を打たれた仕誼《しぎ》。
「ああ、お爺さん。」
と低い四目垣《よつめがき》へ一足《ひとあし》寄ると、ゆっくりと腰をのして、背後《うしろ》へよいとこさと反《そ》るように伸びた。親仁《おやじ》との間は、隔てる草も別になかった。三筋《みすじ》ばかり耕《たが》やされた土が、勢込《いきおいこ》んで、むくむくと湧《わ》き立つような快活な香《におい》を籠《こ》めて、しかも寂寞《せきばく》とあるのみで。勿論《もちろん》、根を抜かれた、肥料《こやし》になる、青々《あおあお》と粉《こな》を吹いたそら豆の芽生《めばえ》に交《まじ》って、紫雲英《れんげそう》もちらほら見えたけれども。
鳥打《とりうち》に手をかけて、
「つかんことを聞くがね、お前さんは何《なん》じゃないかい、この、其処《そこ》の角屋敷《かどやしき》の内《うち》の人じゃないかい。」
親仁《おやじ》はのそりと向直《むきなお》って、皺《しわ》だらけの顔に一杯の日当り、桃の花に影がさしたその色に対して、打向《うちむか》うその方《ほう》の屋根の甍《いらか》は、白昼|青麦《あおむぎ》を※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《あぶ》る空に高い。
「あの家《うち》のかね。」
「その二階のさ。」
「いんえ、違います。」
と、いうことは素気《そっけ》ないが、話を振切《ふりき》るつもりではなさそうで、肩を一《ひと》ツ揺《ゆす》りながら、鍬《くわ》の柄《え》を返して地《つち》についてこっちの顔を見た。
「そうかい、いや、お邪魔をしたね、」
これを機《しお》に、分れようとすると、片手で顱巻《はちまき》を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《かなぐ》り取って、
「どうしまして、邪魔も何もござりましねえ。はい、お前様《まえさま》、何か尋《たず》ねごとさっしゃるかね。彼処《あすこ》の家《うち》は表門《おもてもん》さ閉《しま》っておりませども、貸家《かしや》ではねえが……」
その手拭《てぬぐい》を、裾《すそ》と一緒に、下からつまみ上げるように帯へ挟《はさ》んで、指を腰の両提《ふたつさ》げに突込《つきこ》んだ。これでは直ぐにも通れない。
「何ね、詰《つま》らん事さ。」
「はいい?」
「お爺さんが彼家《あすこ》の人ならそう言って行《ゆ》こうと思って、別に貸家を捜しているわけではないのだよ。奥の方で少《わか》い婦人《おんな》の声がしたもの、空家でないのは分ってるが、」
「そうかね、女中衆《じょちゅうしゅう》も二
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