であります。
 さ、これもじゃ、玉脇の家の客人だち、主人まじりに、御新姐《ごしんぞ》が、庭の築山《つきやま》を遊んだと思えば、それまででありましょうに。
 とうとう表通りだけでは、気が済まなくなったと見えて、前《まえ》申した、その背戸口《せどぐち》、搦手《からめて》のな、川を一つ隔てた小松原の奥深く入《い》り込んで、うろつくようになったそうで。
 玉脇の持地《もちじ》じゃありますが、この松原は、野開《のびら》きにいたしてござる。中には汐入《しおいり》の、ちょっと大きな池もあります。一面に青草《あおぐさ》で、これに松の翠《みどり》がかさなって、唯今頃《ただいまごろ》は菫《すみれ》、夏は常夏《とこなつ》、秋は萩《はぎ》、真個《まこと》に幽翠《ゆうすい》な処《ところ》、些《ち》と行らしって御覧《ごろう》じろ。」
「薄暗い処ですか、」
「藪《やぶ》のようではありません。真蒼《まっさお》な処であります。本でも御覧なさりながらお歩行《ある》きには、至極|宜《よろ》しいので、」
「蛇がいましょう、」
 と唐突《だしぬけ》に尋ねた。
「お嫌いか。」
「何とも、どうも、」
「否《いえ》、何の因果か、あのくらい世の中に嫌われるものも少のうござる。
 しかし、気をつけて見ると、あれでもしおらしいもので、路端《みちばた》などを我《われ》は顔《がお》で伸《の》してる処《ところ》を、人が参って、熟《じっ》と視《なが》めて御覧なさい。見返しますがな、極りが悪そうに鎌首《かまくび》を垂れて、向うむきに羞含《はにか》みますよ。憎くないもので、ははははは、やはり心がありますよ。」
「心があられてはなお困るじゃありませんか。」
「否《いえ》、塩気を嫌うと見えまして、その池のまわりには些《ちっ》ともおりません。邸《やしき》にはこの頃じゃ、その魅《み》するような御新姐《ごしんぞ》も留主《るす》なり、穴《あな》はすかすかと真黒《まっくろ》に、足許に蜂《はち》の巣になっておりましても、蟹《かに》の住居《すまい》、落ちるような憂慮《きづかい》もありません。」

       十七

「客人は、その穴さえ、白髑髏《されこうべ》の目とも見えたでありましょう。
 池をまわって、川に臨んだ、玉脇の家造《やづくり》を、何か、御新姐《ごしんぞ》のためには牢獄ででもあるような考えでござるから。
 さて、潮《しお》のさし引《ひき》ばかりで、流れるのではありません、どんより鼠色《ねずみいろ》に淀《よど》んだ岸に、浮きもせず、沈みもやらず、末始終《すえしじゅう》は砕けて鯉《こい》鮒《ふな》にもなりそうに、何時頃《いつごろ》のか五、六本、丸太が浸《ひた》っているのを見ると、ああ、切組《きりく》めば船になる。繋合《つなぎあ》わせば筏《いかだ》になる。しかるに、綱も棹《さお》もない、恋の淵《ふち》はこれで渡らねばならないものか。
 生身《いきみ》では渡られない。霊魂《たましい》だけなら乗れようものを。あの、樹立《こだち》に包まれた木戸《きど》の中には、その人が、と足を爪立《つまだ》ったりなんぞして。
 蝶《ちょう》の目からも、余りふわふわして見えたでござろう。小松の中をふらつく自分も、何んだかその、肩から上ばかりに、裾《すそ》も足もなくなった心地、日中《ひなか》の妙《みょう》な蝙蝠《こうもり》じゃて。
 懐中《かいちゅう》から本を出して、
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蝋光高懸照紗空《ろうこうたかくかかりしゃをてらしてむなし》、    花房夜搗紅守宮《かぼうよるつくこうしゅきゅう》、
|象口吹香※[#「搨のつくり+毛」、62−12]※[#「登+毛」、62−12」暖《ぞうこうこうをふいてとうとうあたたかに》、    七星挂城聞漏板《しちせいしろにかかってろうばんをきく》、
寒入罘※[#「よんがしら/思」、62−13]殿影昏《さむさふしにいってでんえいくらく》、    彩鸞簾額著霜痕《さいらんれんがくそうこんをつく》、
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 ええ、何んでも此処《ここ》は、蛄《けら》が鉤闌《こうらん》の下に月に鳴く、魏《ぎ》の文帝《ぶんてい》に寵《ちょう》せられた甄夫人《けんふじん》が、後《のち》におとろえて幽閉されたと言うので、鎖阿甄《あけんをとざす》。とあって、それから、
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夢入家門上沙渚《ゆめにかもんにいってしゃしょにのぼる》、    天河落処長洲路《てんがおつるところちょうしゅうのみち》、
願君光明如太陽《ねがわくばきみこうみょうたいようのごとくなれ》、
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 妾《しょう》を放《はな》て、そうすれば、魚《うお》に騎《き》し、波を※[#「てへん+敝」、第4水準2−13−46]《ひら》いて去らん、というのを微吟《びぎん》して、思わず、襟《えり》にはらはらと涙
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