にするでしょう、泳《およぎ》を知らないから、)
 と言って苦笑《にがわらい》をしなさったっけ……それが真実《まこと》になったのでございます。
 どうしたことか、この恋煩《こいわずらい》に限っては、傍《はた》のものは、あはあは、笑って見殺しにいたします。
 私《わたくし》はじめ串戯《じょうだん》半分、ひやかしかたがた、今日《こんにち》は例のは如何《いかが》で、などと申したでございます。
 これは、貴下《あなた》でもさようでありましょう。」
 されば何んと答えよう、喫《の》んでた煙草《たばこ》の灰をはたいて、
「ですがな……どうも、これだけは真面目《まじめ》に介抱《かいほう》は出来かねます。娘が煩《わずら》うのだと、乳母《うば》が始末をする仕来《しきた》りになっておりますがね、男のは困りますな。
 そんな時、その川で沙魚《はぜ》でも釣っていたかったですね。」
「ははは、これはおかしい。」
 と出家は興《きょう》ありげにハタと手を打つ。

       十四

「これはおかしい、釣《つり》といえば丁《ちょう》どその時、向う詰《づめ》の岸に踞《しゃが》んで、ト釣っていたものがあったでござる。橋詰《はしづめ》の小店《こみせ》、荒物を商《あきな》う家の亭主で、身体《からだ》の痩《や》せて引緊《ひっしま》ったには似ない、褌《ふんどし》の緩《ゆる》い男で、因果《いんが》とのべつ釣をして、はだけていましょう、真《まこと》にあぶなッかしい形でな。
 渾名《あだな》を一厘土器《いちもんかわらけ》と申すでござる。天窓《あたま》の真中の兀工合《はげぐあい》が、宛然《さながら》ですて――川端の一厘土器《いちもんかわらけ》――これが爾時《そのとき》も釣っていました。
 庵室《あんじつ》の客人が、唯今《ただいま》申す欄干《らんかん》に腰を掛けて、おくれ毛越《げごし》にはらはらと靡《なび》いて通る、雪のような襟脚《えりあし》を見送ると、今、小橋《こばし》を渡った処《ところ》で、中の十歳《とお》位のがじゃれて、その腰へ抱《だ》き着いたので、白魚《しらお》という指を反《そ》らして、軽くその小児《こども》の背中を打った時だったと申します。
(お坊《ぼっ》ちゃま、お坊ちゃま、)
 と大声で呼び懸けて、
(手巾《ハンケチ》が落ちました、)と知らせたそうでありますが、件《くだん》の土器殿《かわらけどの》も、餌《えさ》は振舞《ふるま》う気で、粋《いき》な後姿を見送っていたものと見えますよ。
(やあ、)と言って、十二、三の一番上の児《こ》が、駈けて返って、橋の上へ落して行った白い手巾《ハンケチ》を拾ったのを、懐中《ふところ》へ突込《つッこ》んで、黙ってまた飛んで行ったそうで。小児《こども》だから、辞儀《じぎ》も挨拶《あいさつ》もないでございます。
 御新姐《ごしんぞ》が、礼心《れいごころ》で顔だけ振向いて、肩へ、頤《おとがい》をつけるように、唇を少し曲げて、その涼《すずし》い目で、熟《じっ》とこちらを見返ったのが取違えたものらしい。私《わたくし》が許《とこ》の客人と、ぴったり出会ったでありましょう。
 引込《ひきこ》まれて、はッと礼を返したが、それッきり。御新姐《ごしんぞ》の方は見られなくって、傍《わき》を向くと貴下《あなた》、一厘土器《いちもんかわらけ》が怪訝《けげん》な顔色《かおつき》。
 いやもう、しっとり冷汗《ひやあせ》を掻いたと言う事、――こりゃなるほど。極《きまり》がよくない。
 局外《はた》のものが何んの気もなしに考えれば、愚にもつかぬ事なれど、色気があって御覧《ごろう》じろ。第一、野良声《のらごえ》の調子ッぱずれの可笑《おかし》い処《ところ》へ、自分主人でもない余所《よそ》の小児《こども》を、坊やとも、あの児《こ》とも言うにこそ、へつらいがましい、お坊ちゃまは不見識の行止《ゆきどま》り、申さば器量《きりょう》を下げた話。
 今一方《いまいっぽう》からは、右の土器殿《かわらけどの》にも小恥《こっぱず》かしい次第でな。他人のしんせつで手柄をしたような、変な羽目になったので。
 御本人、そうとも口へ出して言われませなんだが、それから何んとなく鬱《ふさ》ぎ込むのが、傍目《よそめ》にも見えたであります。
 四、五日、引籠《ひきこも》ってござったほどで。
 後《のち》に、何も彼《か》も打明けて私《わたくし》に言いなさった時の話では、しかしまたその間違《まちがい》が縁《えん》になって、今度出会った時は、何んとなく両方で挨拶《あいさつ》でもするようになりはせまいか。そうすれば、どんなにか嬉《うれ》しかろう、本望《ほんもう》じゃ、と思われたそうな。迷いと申すはおそろしい、情《なさけ》ないものでござる。世間|大概《たいがい》の馬鹿も、これほどなことはないでございます。
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