でありますに。この久能谷《くのや》の方は、些《ちっ》と足場《あしば》が遠くなりますから、すべて、見得装飾《みえかざり》を向うへ持って参って、小松橋《こまつばし》が本宅のようになっております。
そこで、去年の夏頃は、御新姐《ごしんぞ》。申すまでもない、そちらにいたでございます。
でその――小松橋を渡ると、急に遠目金《とおめがね》を覗《のぞ》くような円《まる》い海の硝子《がらす》へ――ぱっと一杯に映《うつ》って、とき色の服の姿が浪《なみ》の青いのと、巓《いただき》の白い中へ、薄い虹《にじ》がかかったように、美しく靡《なび》いて来たのがある。……
と言われたは、即《すなわ》ち、それ、玉脇の……でございます。
しかし、その時はまだ誰だか本人も御存じなし、聞く方でも分りませんので。どういう別嬪《べっぴん》でありました、と串戯《じょうだん》にな、団扇《うちわ》で煽《あお》ぎながら聞いたでございます。
客人は海水帽を脱いだばかり、まだ部屋へも上《あが》らず、その縁側《えんがわ》に腰をかけながら。
(誰方《どなた》か、尊《とうと》いくらいでした。)」
十三
「大分《だいぶ》気高く見えましたな。
客人が言うには、
(二、三|間《げん》あいを置いて、おなじような浴衣《ゆかた》を着た、帯を整然《きちん》と結んだ、女中と見えるのが附いて通りましたよ。
唯《ただ》すれ違いざまに見たんですが、目鼻立ちのはっきりした、色の白いことと、唇の紅《あか》さったらありませんでした。
盛装という姿だのに、海水帽をうつむけに被《かぶ》って――近所の人ででもあるように、無造作に見えましたっけ。むこう、そうやって下を見て帽子の廂《ひさし》で日を避《よ》けるようにして来たのが、真直《まっすぐ》に前へ出たのと、顔を見合わせて、両方へ避《さ》ける時、濃い睫毛《まつげ》から瞳《ひとみ》を涼しく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いたのが、雪舟《せっしゅう》の筆を、紫式部《むらさきしきぶ》の硯《すずり》に染めて、濃淡のぼかしをしたようだった。
何んとも言えない、美しさでした。
いや、こういうことをお話します、私《わたし》は鳥羽絵《とばえ》に肖《に》ているかも知れない。
さあ、御飯《ごはん》を頂いて、柄相応《がらそうおう》に、月夜の南瓜畑《とうなすばたけ》でもまた見に出ましょうかね。)
爾晩《そのばん》は貴下《あなた》、唯《ただ》それだけの事で。
翌日また散歩に出て、同じ時分に庵室《あんじつ》へ帰って見えましたから、私《わたくし》が串戯《じょうだん》に、
(雪舟の筆は如何《いかが》でござった。)
(今日は曇った所為《せい》か見えませんでした。)
それから二、三日|経《た》って、
(まだお天気が直りませんな。些《ち》と涼しすぎるくらい、御歩行《おひろい》には宜《よろ》しいが、やはり雲がくれでござったか。)
(否《いや》、源氏《げんじ》の題に、小松橋《こまつばし》というのはありませんが、今日はあの橋の上で、)
(それは、おめでたい。)
などと笑いまする。
(まるで人違いをしたように粋《いき》でした。私《わたし》がこれから橋を渡ろうという時、向うの袂《たもと》へ、十二、三を頭《かしら》に、十歳《とお》ぐらいのと、七八歳《ななやッつ》ばかりのと、男の児《こ》を三人連れて、その中の小さいのの肩を片手で敲《たた》きながら、上から覗《のぞ》き込むようにして、莞爾《にっこり》して橋の上へかかって来ます。
どんな婦人《おんな》でも羨《うらやま》しがりそうな、すなおな、房《ふっさ》りした花月巻《かげつまき》で、薄《うす》お納戸地《なんどじ》に、ちらちらと膚《はだ》の透《す》いたような、何んの中形《ちゅうがた》だか浴衣《ゆかた》がけで、それで、きちんとした衣紋附《えもんつき》。
絽《ろ》でしょう、空色と白とを打合わせの、模様はちょっと分らなかったが、お太鼓《たいこ》に結んだ、白い方が、腰帯に当って水無月《みなづき》の雪を抱《だ》いたようで、見る目に、ぞッとして擦《す》れ違う時、その人は、忘れた形《なり》に手を垂れた、その両手は力なさそうだったが、幽《かすか》にぶるぶると肩が揺れたようでした、傍《そば》を通った男の気《け》に襲われたものでしょう。
通《とお》り縋《すが》ると、どうしたのか、我を忘れたように、私《わたし》は、あの、低い欄干《らんかん》へ、腰をかけてしまったんです。抜けたのだなぞと言っては不可《いけ》ません。下は川ですから、あれだけの流れでも、落《おっこ》ちようもんならそれっきりです――淵《ふち》や瀬でないだけに、救助船《たすけぶね》とも喚《わめ》かれず、また叫んだ処《ところ》で、人は串戯《じょうだん》だと思って、笑って見殺し
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