87−64]《だいきえん》じゃ。
(万歳々々《ばんざいばんざい》、今夜お忍《しのび》か。)
(勿論《もちろん》、)
 と答えて、頭のあたりをざぶざぶと、仰《あお》いで天に愧《は》じざる顔色《かおつき》でありました。が、日頃の行《おこな》いから[#「行《おこな》いから」は底本では「行《おこか》いから」]察して、如何《いか》に、思死《おもいじに》をすればとて、いやしくも主《ぬし》ある婦人に、そういう不料簡《ふりょうけん》を出すべき仁《じん》でないと思いました、果せる哉《かな》。
 冷奴《ひややっこ》に紫蘇《しそ》の実、白瓜《しろうり》の香《こう》の物《もの》で、私《わたくし》と取膳《とりぜん》の飯を上《あが》ると、帯を緊《し》め直して、
(もう一度そこいらを。)
 いや、これはと、ぎょっとしたが、垣《かき》の外へ出られた姿は、海の方へは行《ゆ》かないで、それ、その石段を。」
 一面の日当りながら、蝶《ちょう》の羽《は》の動くほど、山の草に薄雲が軽く靡《なび》いて、檐《のき》から透《すか》すと、峰の方は暗かった、余り暖《あたたか》さが過ぎたから。

       十九

 降ろうも知れぬ。日向《ひなた》へ蛇が出ている時は、雨を持つという、来がけに二度まで見た。
 で、雲が被《かぶ》って、空気が湿《しめ》った所為《せい》か、笛太鼓《ふえたいこ》の囃子《はやし》の音が山一ツ越えた彼方《かなた》と思うあたりに、蛙《かえる》が喞《すだ》くように、遠いが、手に取るばかり、しかも沈んでうつつの音楽のように聞えて来た。靄《もや》で蝋管《ろうかん》の出来た蓄音器《ちくおんき》の如く、かつ遥《はるか》に響く。
 それまでも、何かそれらしい音はしたが、極めて散漫で、何の声とも纏《まと》まらない。村々の蔀《しとみ》、柱、戸障子《としょうじ》、勝手道具などが、日永《ひなが》に退屈して、のびを打ち、欠伸《あくび》をする気勢《けはい》かと思った。いまだ昼前だのに、――時々牛の鳴くのが入交《いりまじ》って――時に笑い興《きょう》ずるような人声も、動かない、静かに風に伝わるのであった。
 フト耳を澄ましたが、直ぐに出家の言《ことば》になって、
「大分《だいぶ》町の方が賑《にぎわ》いますな。」
「祭礼でもありますか。」
「これは停車場《ていしゃば》近くにいらっしゃると承《うけたまわ》りましたに、つい御近所
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