春昼
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お爺《じい》さん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近頃|買求《かいもと》めた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《あぶ》る空に
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一
「お爺《じい》さん、お爺さん。」
「はあ、私《わし》けえ。」
と、一言《ひとこと》で直《す》ぐ応じたのも、四辺《あたり》が静かで他《た》には誰もいなかった所為《せい》であろう。そうでないと、その皺《しわ》だらけな額《ひたい》に、顱巻《はちまき》を緩《ゆる》くしたのに、ほかほかと春の日がさして、とろりと酔ったような顔色《がんしょく》で、長閑《のど》かに鍬《くわ》を使う様子が――あのまたその下の柔《やわらか》な土に、しっとりと汗ばみそうな、散りこぼれたら紅《くれない》の夕陽の中に、ひらひらと入《はい》って行《ゆ》きそうな――暖《あたたか》い桃《もも》の花を、燃え立つばかり揺《ゆす》ぶって頻《しきり》に囀《さえず》っている鳥の音《ね》こそ、何か話をするように聞こうけれども、人の声を耳にして、それが自分を呼ぶのだとは、急に心付《こころづ》きそうもない、恍惚《うっとり》とした形であった。
こっちもこっちで、かくたちどころに返答されると思ったら、声を懸《か》けるのじゃなかったかも知れぬ。
何為《なぜ》なら、さて更《あらた》めて言うことが些《ち》と取《と》り留《と》めのない次第なので。本来ならこの散策子《さんさくし》が、そのぶらぶら歩行《あるき》の手すさびに、近頃|買求《かいもと》めた安直《あんちょく》な杖《ステッキ》を、真直《まっすぐ》に路《みち》に立てて、鎌倉《かまくら》の方へ倒れたら爺《じい》を呼ぼう、逗子《ずし》の方へ寝たら黙って置こう、とそれでも事は済《す》んだのである。
多分《たぶん》は聞えまい、聞えなければ、そのまま通り過ぎる分《ぶん》。余計な世話だけれども、黙《だまり》きりも些《ちっ》と気になった処《ところ》。響《ひびき》の応ずるが如きその、(はあ、私《わし》けえ)には、聊《いささ》か不意を打たれた仕誼《しぎ》。
「ああ、お爺さん。」
と低い四目垣《よつめがき
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