出ましょうかね。)
 爾晩《そのばん》は貴下《あなた》、唯《ただ》それだけの事で。
 翌日また散歩に出て、同じ時分に庵室《あんじつ》へ帰って見えましたから、私《わたくし》が串戯《じょうだん》に、
(雪舟の筆は如何《いかが》でござった。)
(今日は曇った所為《せい》か見えませんでした。)
 それから二、三日|経《た》って、
(まだお天気が直りませんな。些《ち》と涼しすぎるくらい、御歩行《おひろい》には宜《よろ》しいが、やはり雲がくれでござったか。)
(否《いや》、源氏《げんじ》の題に、小松橋《こまつばし》というのはありませんが、今日はあの橋の上で、)
(それは、おめでたい。)
 などと笑いまする。
(まるで人違いをしたように粋《いき》でした。私《わたし》がこれから橋を渡ろうという時、向うの袂《たもと》へ、十二、三を頭《かしら》に、十歳《とお》ぐらいのと、七八歳《ななやッつ》ばかりのと、男の児《こ》を三人連れて、その中の小さいのの肩を片手で敲《たた》きながら、上から覗《のぞ》き込むようにして、莞爾《にっこり》して橋の上へかかって来ます。
 どんな婦人《おんな》でも羨《うらやま》しがりそうな、すなおな、房《ふっさ》りした花月巻《かげつまき》で、薄《うす》お納戸地《なんどじ》に、ちらちらと膚《はだ》の透《す》いたような、何んの中形《ちゅうがた》だか浴衣《ゆかた》がけで、それで、きちんとした衣紋附《えもんつき》。
 絽《ろ》でしょう、空色と白とを打合わせの、模様はちょっと分らなかったが、お太鼓《たいこ》に結んだ、白い方が、腰帯に当って水無月《みなづき》の雪を抱《だ》いたようで、見る目に、ぞッとして擦《す》れ違う時、その人は、忘れた形《なり》に手を垂れた、その両手は力なさそうだったが、幽《かすか》にぶるぶると肩が揺れたようでした、傍《そば》を通った男の気《け》に襲われたものでしょう。
 通《とお》り縋《すが》ると、どうしたのか、我を忘れたように、私《わたし》は、あの、低い欄干《らんかん》へ、腰をかけてしまったんです。抜けたのだなぞと言っては不可《いけ》ません。下は川ですから、あれだけの流れでも、落《おっこ》ちようもんならそれっきりです――淵《ふち》や瀬でないだけに、救助船《たすけぶね》とも喚《わめ》かれず、また叫んだ処《ところ》で、人は串戯《じょうだん》だと思って、笑って見殺し
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