、声が聞えて来ましたのは、」
「何んの声です?」
「はあ、私が臥《ふせ》りまして、枕に髪をこすりつけて、悶《もだ》えて、あせって、焦《じ》れて、つくづく口惜《くやし》くって、情《なさけ》なくって、身がしびれるような、骨が溶けるような、心持でいた時でした。先刻《さっき》の、あの雨の音、さあっと他愛《たわい》なく軒《のき》へかかって通りましたのが、丁《ちょう》ど彼処《あすこ》あたりから降り出して来たように、寝ていて思われたのでございます。
あの停車場《ステイション》の囃子《はやし》の音に、何時《いつ》か気を取られていて、それだからでしょう。今でも停車場《ステイション》の人ごみの上へだけは、細《こまか》い雨がかかっているように思われますもの。まだ何処《どこ》にか雨気《あまけ》が残っておりますなら、向うの霞《かすみ》の中でしょうと思いますよ。
と、その細い、幽《かすか》な、空を通るかと思う雨の中に、図太い、底力《そこぢから》のある、そして、さびのついた塩辛声《しおからごえ》を、腹の底から押出《おしだ》して、
(ええ、ええ、ええ、伺《うかが》います。お話はお馴染《なじみ》の東京|世渡草《よわたりぐさ》、商人《あきんど》の仮声《こわいろ》物真似《ものまね》。先ず神田辺《かんだへん》の事でござりまして、ええ、大家《たいけ》の店前《みせさき》にござります。夜《よ》のしらしら明けに、小僧さんが門口《かどぐち》を掃《は》いておりますると、納豆《なっとう》、納豆――)
と申して、情《なさけ》ない調子になって、
(ええ、お御酒《みき》を頂きまして声が続きません、助けて遣《や》っておくんなさい。)
と厭《いや》な声が、流れ星のように、尾を曳《ひ》いて響くんでございますの。
私は何んですか、悚然《ぞっ》として寝床に足を縮めました。しばらくして、またその(ええ、ええ、)という変な声が聞えるんです。今度は些《ちっ》と近くなって。
それから段々あの橿原《かしわばら》の家《うち》を向い合いに、飛び飛びに、千鳥《ちどり》にかけて一軒一軒、何処《どこ》でもおなじことを同一《おなじ》ところまで言って、お銭《あし》をねだりますんでございますがね、暖《あたたか》い、ねんばりした雨も、その門附《かどづ》けの足と一緒に、向うへ寄ったり、こっちへよったり、ゆるゆる歩行《ある》いて来ますようです。
その納豆納豆――というのだの、東京というのですの、店前《みせさき》だの、小僧が門口《かどぐち》を掃いている処《ところ》だと申しますのが、何んだか懐《なつか》しい、両親の事や、生れました処なんぞ、昔が思い出されまして、身体《からだ》を煮られるような心持がして我慢が出来ないで、掻巻《かいまき》の襟《えり》へ喰《く》いついて、しっかり胸を抱《だ》いて、そして恍惚《うっとり》となっておりますと、やがて、些《ち》と強く雨が来て当ります時、内《うち》の門《かど》へ参ったのでございます。
(ええ、ええ、ええ、)
と言い出すじゃございませんか。
(お話はお馴染《なじみ》の東京|世渡草《よわたりぐさ》、商人《あきんど》の仮声《こわいろ》物真似《ものまね》。先ず神田辺《かんだへん》の事でござりまして、ええ、大家《たいけ》の店さきでござります。夜《よ》のしらしらあけに、小僧さんが門口《かどぐち》を掃いておりますと、納豆納豆――)
とだけ申して、
(ええ、お御酒《みき》を頂きまして声が続きません、助けて遣《や》っておくんなさい。)
と一|分《ぶ》一|厘《りん》おなじことを、おなじ調子でいうんですもの。私の門《かど》へ来ましたまでに、遠くから丁《ちょう》ど十三|度《たび》聞いたのでございます。」
三十二
「女中が直ぐに出なかったんです。
(ねえ、助けておくんなさいな、お御酒《みき》を頂いたもんだからね、声が続かねえんで、えへ、えへ、)
厭《いや》な咳《せき》なんぞして、
(遣《や》っておくんなさいよ、飲み過ぎて切《せつ》ねえんで、助けておくんなさい、お願《ねげ》えだ。)
と言って独言《ひとりごと》のように、貴下《あなた》、
(遣《や》り切《きれ》ねえや、)ッて、いけ太々《ふとぶと》しい容子《ようす》ったらないんですもの。其処《そこ》らへ、べッべッ唾《つば》をしっかけていそうですわ。
小銭《こぜに》の音をちゃらちゃらとさして、女中が出そうにしましたから、
(光《みつ》かい、光や、)
と呼んで、二階の上《あが》り口へ来ましたのを、押留《おしと》めるように、床《とこ》の中から、
(何んだね、)
と自分でも些《ち》と尖々《とげとげ》しく言ったんです。
(門附《かどづけ》でございます。)
(芸人《げいにん》かい!)
(はい、)
ッて吃驚《びっくり》していました。
(不可《いけな》いよ、遣《や》っちゃ不可《いけ》ない。
芸人なら芸人らしく芸をして銭《おあし》をお取り、とそうお言い。出来ないなら出来ないと言って乞食《こじき》をおし。なぜまた自分の芸が出来ないほど酒を呑んだ、と言ってお遣《や》り。いけ洒亜々々《しゃあしゃあ》失礼じゃないか。)
とむらむらとして、どうしたんですか、じりじり胸が煮え返るようで極《き》めつけますと、窃《そっ》と跫音《あしおと》を忍んで、光《みつ》やは、二階を下りましたっけ。
お恥《はずか》しゅうございますわ。
甲高《かんだか》かったそうで、よく下まで聞えたと見えます。表二階《おもてにかい》にいたんですから。
(何んだって、)
と門口《かどぐち》で喰《く》ってかかるような声がしました。
枕をおさえて起上《おきあが》りますと、女中の声で、御病気なんだからと、こそこそいうのが聞えました。
嘲《あざけ》るように、
(病人なら病人らしく死んじまえ。治《なお》るもんなら治ったら可《よ》かろう。何んだって愚図《ぐず》ついて、煩《わずら》っているんだ。)
と赭顔《あからがお》なのが白い歯を剥《む》き出していうようです。はあ、そんな心持がしましたの。
(おお、死んで見せようか、死ぬのが何も、)とつっと立つと、ふらふらして床《とこ》を放《はな》れて倒れました。段へ、裾《すそ》を投げ出して、欄干《らんかん》につかまった時、雨がさっと暗くなって、私はひとりで泣いたんです。それッきり、声も聞えなくなって、門附《かどづけ》は何処《どこ》へ参りましたか。雨も上って、また明《あかる》い日が当りました。何んですかねえ、十文字に小児《こども》を引背負《ひっしょ》って跣足《はだし》で歩行《ある》いている、四十|恰好《かっこう》の、巌乗《がんじょう》な、絵に描《か》いた、赤鬼《あかおに》と言った形のもののように、今こうやってお話をします内《うち》も考えられます。女中に聞いたのでもございませんのに――
またもう寝床へ倒れッきりになりましょうかとも存じましたけれども、そうしたら気でも違いそうですから、ぶらぶら日向《ひなた》へ出て来たんでございます。
否《いいえ》、はじめてお目にかかりました貴下《あなた》に、こんなお話を申上げまして、もう気が違っておりますのかも分りませんが、」
と言いかけて、心を籠《こ》めて見詰めたらしい、目の色は美しかった。
「貴下《あなた》、真個《ほんとう》に未来というものはありますものでございましょうか知ら。」
「…………」
「もしあるものと極《きま》りますなら、地獄でも極楽でも構いません。逢いたい人が其処《そこ》にいるんなら。さっさと其処へ行《ゆ》けば宜《よろ》しいんですけれども、」
と土筆《つくし》のたけの指《ゆび》白《しろ》う、またうつつなげに草を摘《つ》み、摘み、
「きっとそうと極《きま》りませんから、もしか、死んでそれっきりになっては情《なさけ》ないんですもの。そのくらいなら、生きていて思い悩んで、煩《わず》らって、段々消えて行《ゆ》きます方が、いくらか増《まし》だと思います。忘れないで、何時《いつ》までも、何時までも、」
と言い言い抜き取った草の葉をキリキリと白歯《しろは》で噛《か》んだ。
トタンに慌《あわただ》しく、男の膝越《ひざごし》に衝《つ》とのばした袖《そで》の色も、帯の影も、緑の中に濃くなって、活々《いきいき》として蓮葉《はすは》なものいい。
「いけないわ、人の悪い。」
散策子は答えに窮《きゅう》して、実は草の上に位置も構わず投出《なげだ》された、オリイブ色の上表紙《うわびょうし》に、とき色のリボンで封のある、ノオトブックを、つまさぐっていたのを見たので。
三十三
「こっちへ下さいよ、厭《いや》ですよ。」
と端《はし》へかけた手を手帳に控えて、麦畠《むぎばたけ》へ真正面《まっしょうめん》。話をわきへずらそうと、青天白日《せいてんはくじつ》に身構えつつ、
「歌がお出来なさいましたか。」
「ほほほほ、」
と唯《ただ》笑う。
「絵をお描《か》きになるんですか。」
「ほほほほ。」
「結構ですな、お楽しみですね、些《ち》と拝見いたしたいもんです。」
手を放《はな》したが、附着《くッつ》いた肩も退《の》けないで、
「お見せ申しましょうかね。」
あどけない状《さま》で笑いながら、持直《もちなお》してぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳の枚頁《ページ》は、この人の手にあたかも蝶の翼《つばさ》を重ねたようであったが、鉛筆で描《か》いたのは……
一目《ひとめ》見て散策子は蒼《あお》くなった。
大小|濃薄《のうはく》乱雑に、半《なか》ばかきさしたのもあり、歪《ゆが》んだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、○《まる》と□《しかく》△《さんかく》ばかり。
「ね、上手《じょうず》でしょう。此処等《ここいら》の人たちは、貴下《あなた》、玉脇《たまわき》では、絵を描《か》くと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、何時《いつ》までもこうしていますのに、唯《ただ》いては、谷戸口《やとぐち》の番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。
大層評判が宜《よろ》しゅうございますから……何《なん》ですよ、この頃に絵具《えのぐ》を持出《もちだ》して、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。
この円《まる》いのが海、この三角が山、この四角《しかく》いのが田圃《たんぼ》だと思えばそれでもようござんす。それから○《まる》い顔にして、□《しかく》い胴にして△《さんかく》に坐っている、今戸焼《いまどやき》の姉様《あねさん》だと思えばそれでも可《よ》うございます、袴《はかま》を穿《は》いた殿様だと思えばそれでも可《よ》いでしょう。
それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な顔色《かおつき》をしても可《い》いんですし、名を知らない死んだ人の戒名《かいみょう》だと思って拝《おが》んでも可《い》いんですよ。」
ようよう声が出て、
「戒名《かいみょう》、」
と口が利ける。
「何《なに》、何んというんです。」
「四角院円々三角居士《しかくいんまるまるさんかくこじ》と、」
いいながら土手に胸をつけて、袖《そで》を草に、太脛《ふくらはぎ》のあたりまで、友染《ゆうぜん》を敷乱《しきみだ》して、すらりと片足|片褄《かたづま》を泳がせながら、こう内《うち》へ掻込《かきこ》むようにして、鉛筆ですらすらとその三体《さんたい》の秘密を記《しる》した。
テンテンカラ、テンカラと、耳許《みみもと》に太鼓《たいこ》の音。二人の外《ほか》に人のない世ではない。アノ椿《つばき》の、燃え落ちるように、向うの茅屋《かやや》へ、続いてぼたぼたと溢《あふ》れたと思うと、菜種《なたね》の路《みち》を葉がくれに、真黄色《まっきいろ》な花の上へ、ひらりと彩《いろど》って出たものがある。
茅屋《かやや》の軒へ、鶏《にわとり》が二羽|舞上《まいあが》ったのかと思った。
二個《ふたつ》の頭《かしら》、獅子頭《ししがしら》、高いのと低いのと、後《あと》になり先になり、縺《もつ》れる、狂う、花すれ、葉
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