行《ある》いた。――真一文字の日あたりで、暖かさ過ぎるので、脱いだ外套《がいとう》は、その女が持ってくれた。――歩行《ある》きながら、
「……私は虫と同じ名だから。」
しかし、これは、虫にくらべて謙遜した意味ではない。実は太郎を、浦島の子に擬《なぞら》えて、潜《ひそか》に思い上った沙汰《さた》なのであった。
湖を遥《はるか》に、一廓《ひとくるわ》、彩色した竜の鱗《うろこ》のごとき、湯宿々々の、壁、柱、甍《いらか》を中に隔てて、いまは鉄鎚《てっつい》の音、謡の声も聞えないが、出崎の洲《す》の端《はた》に、ぽッつりと、烏帽子《えぼし》の転がった形になって、あの船も、船大工も見える。木納屋の苫屋《とまや》は、さながらその素袍《すおう》の袖である。
――今しがた、この女が、細道をすれ違った時、蕈《きのこ》に敷いた葉を残した笊《ざる》を片手に、行《ゆ》く姿に、ふとその手鍋《てなべ》提げた下界の天女の俤《おもかげ》を認めたのである。そぞろに声掛けて、「あの、蕈《きのこ》を、……三銭に売ったのか。」とはじめ聞いた。えんぶだごんの価値《あたい》でも説く事か、天女に対して、三銭也を口にする。……さもしいようだが、対手《あいて》が私だから仕方がない。「ええ、」と言うのに押被《おっかぶ》せて、「馬鹿々々しく安いではないか。」と義憤を起すと、せめて言いねの半分には買ってもらいたかったのだけれど、「旦那さんが見てであったしな。……」と何か、私に対して、値の押問答をするのが極《きまり》が悪くもあったらしい口振《くちぶり》で。……「失礼だが、世帯の足《たし》になりますか。」ときくと、そのつもりではあったけれど、まるで足りない。煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お稲荷様《いなりさま》のお賽銭《さいせん》に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目《しまめ》の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋《ばちぶくろ》とも見えず挟《はさま》って、腰帯ばかりが紅《べに》であった。「姉さんの言い値ほどは、お手間を上げます。あの松原は松露があると、宿で聞いて、……客はたて込む、女中は忙しいし、……一人で出て来たが覚束《おぼつか》ない。ついでに、いまの(霜こし)のありそうな処へ案内して、一つでも二つでも取らして下さい、……私は茸狩《たけがり》が大好き。――」と言って、言ううちに我ながら思入って、感激した。
はかない恋の思出がある。
もう疾《とく》に、余所《よそ》の歴《れっ》きとした奥方だが、その私より年上の娘さんの頃、秋の山遊びをかねた茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に綺羅《きら》は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で茣蓙《ござ》に毛氈《もうせん》を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢《えりあか》のついた見すぼらしい、母のない児《こ》の手を、娘さん――そのひとは、厭《いと》わしげもなく、親しく曳《ひ》いて坂を上ったのである。衣《きぬ》の香に包まれて、藤紫の雲の裡《うち》に、何も見えぬ。冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿《たど》った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈《きのこ》を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥《はるか》に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵《まきえ》の重に片袖を掛けて、ほっと憩《やす》らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘《かく》そう。その人のいま居る背後《うしろ》に、一本《ひともと》の松は、我がなき母の塚であった。
向った丘に、もみじの中に、昼の月、虚空に澄んで、月天《がってん》の御堂《みどう》があった。――幼い私は、人界の茸《きのこ》を忘れて、草がくれに、偏《ひとえ》に世にも美しい人の姿を仰いでいた。
弁当に集《あつま》った。吸筒《すいづつ》の酒も開かれた。「関ちゃん――関ちゃん――」私の名を、――誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、引《ひッ》つかんで声を堪《こら》えた、茨《いばら》の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ――これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くりかえして聞きたかったからであった。「打棄《うっちゃ》っておけ、もう、食いに出て来る。」私は傍《そば》の男たちの、しか言うのさえ聞える近まにかくれたのである。草を噛《か》んだ。草には露、目には涙、縋《すが》る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような紅《くれない》の清水が流れた。「関ちゃん――関ちゃんや――」澄み透《とお》った空もやや翳《かげ》る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、す
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