らりと立った。――この時、日月《じつげつ》を外にして、その丘に、気高く立ったのは、その人ただ一人であった。草に縋って泣いた虫が、いまは堪《たま》らず蟋蟀《こおろぎ》のように飛出すと、するすると絹の音、颯《さっ》と留南奇《とめき》の香で、もの静《しずか》なる人なれば、せき心にも乱れずに、衝《つ》と白足袋で氈《かも》を辷《すべ》って肩を抱いて、「まあ、可《よ》かった、怪我をなさりはしないかと姉さんは心配しました。」少年はあつい涙を知った。
やがて、世の状《さま》とて、絶えてその人の俤《おもかげ》を見る事の出来ずなってから、心も魂もただ憧憬《あこがれ》に、家さえ、町さえ、霧の中を、夢のように※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》った。――故郷《ふるさと》の大通りの辻に、老舗《しにせ》の書店の軒に、土地の新聞を、日ごとに額面に挿《はさ》んで掲げた。表《おもて》三の面上段に、絵入りの続きもののあるのを、ぼんやりと彳《たたず》んで見ると、さきの運びは分らないが、ちょうど思合った若い男女が、山に茸狩《たけがり》をする場面である。私は一目見て顔がほてり、胸が躍った。――題も忘れた、いまは朧気《おぼろげ》であるから何も言うまい。……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌《いわ》に遮られ、樹に包まれ、兇漢《くせもの》に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのである。一句、一句、会話に、声に――がある……がある……! が重る。――私は夜《よ》も寝られないまで、翌日の日を待ちあぐみ、日ごとにその新聞の前に立って読み耽《ふけ》った。が、三日、五日、六日、七日になっても、まだその二人は谷と谷を隔てている。!……も、――も、丶も、邪魔なようで焦《じれ》ったい。が、しかしその一つ一つが、峨々《がが》たる巌《いわお》、森《しん》とした樹立《こだち》に見えた。丶《くとう》さえ深く刻んだ谷に見えた。……赤新聞と言うのは唯今《ただいま》でもどこかにある……土地の、その新聞は紙が青かった。それが澄渡った秋深き空のようで、文字は一《ひとつ》ずつもみじであった。作中の娘は、わが恋人で、そして、とぼんと立って読むものは小さな茸《きのこ》のように思われた。――石になった恋がある。少年は茸になった。「関弥。」ああ、勿体ない。……余りの様子を、案じ案じ捜しに出た父に、どんと背中を敲《たた》かれて、ハッと思った私は、新聞の中から、天狗《てんぐ》の翼《はね》をこぼれたようにぽかんと落ちて、世に返って、往来《ゆきき》の人を見、車を見、且つ屋根越に遠く我が家の町を見た。――
なつかしき茸狩よ。
二十年あまり、かくてその後、茸狩らしい真似をさえする機会がなかったのであった。
「……おともしますわ。でも、大勢で取りますから、茸《きのこ》があればいいんですけど……」
湯の町の女は、先に立って導いた。……
湖のなぐれに道を廻《めぐ》ると、松山へ続く畷《なわて》らしいのは、ほかほかと土が白い。草のもみじを、嫁菜のおくれ咲が彩って、枯蘆《かれあし》に陽が透通る。……その中を、飛交うのは、琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》のような螽《いなご》であった。
一つ、別に、この畷を挟んで、大なる潟が湧《わ》いたように、刈田を沈め、鳰《かいつぶり》を浮かせたのは一昨日の夜《よ》の暴風雨の余残《なごり》と聞いた。蘆の穂に、橋がかかると渡ったのは、横に流るる川筋を、一つらに渺々《びょうびょう》と汐《しお》が満ちたのである。水は光る。
橋の袂《たもと》にも、蘆の上にも、随所に、米つき虫は陽炎《かげろう》のごとくに舞って、むらむらむらと下へ巻き下《くだ》っては、トンと上って、むらむらとまた舞いさがる。
一筋の道は、湖の只中《ただなか》を霞の渡るように思われた。
汽車に乗って、がたがた来て、一泊|幾干《いくら》の浦島に取って見よ、この姫君さえ僭越《せんえつ》である。
「ほんとうに太郎と言います、太郎ですよ。――姉さんの名は?……」
「…………」
「姉さんの名は?……」
女は幾度も口籠りながら、手拭《てぬぐい》の端を俯目《ふしめ》に加《くわ》えて、
「浪路《なみじ》。……」
と言った。
――と言うのである。……読者諸君《みなさん》、女の名は浪路だそうです。
四
あれに、翁《おきな》が一人見える。
白砂の小山の畦道《あぜみち》に、菜畑の菜よりも暖かそうな、おのが影法師を、われと慰むように、太い杖《つえ》に片手づきしては、腰を休め休め近づいたのを、見ると、大黒頭巾《だいこくずきん》
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