小春の狐
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蜆《しじみ》の汁
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)雲|忽《たちま》ち
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]《ほうぼう》の
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一
朝――この湖の名ぶつと聞く、蜆《しじみ》の汁で。……燗《かん》をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。……
いい天気で、暖かかったけれども、北国《ほっこく》の事だから、厚い外套《がいとう》にくるまって、そして温泉宿を出た。
戸外の広場の一廓《ひとくるわ》、総湯の前には、火の見の階子《はしご》が、高く初冬の空を抽《ぬ》いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静《しずか》に枝垂《しだ》れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。
横路地から、すぐに見渡さるる、汀《みぎわ》の蘆《あし》の中に舳《みよし》が見え、艫《とも》が隠れて、葉越葉末に、船頭の形が穂を戦《そよ》がして、その船の胴に動いている。が、あの鉄鎚《てっつい》の音を聞け。印半纏《しるしばんてん》の威勢のいいのでなく、田船を漕《こ》ぐお百姓らしい、もっさりとした布子《ぬのこ》のなりだけれども、船大工かも知れない、カーンカーンと打つ鎚《つち》が、一面の湖の北の天《そら》なる、雪の山の頂に響いて、その間々に、
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「これは三保の松原に、伯良《はくりょう》と申す漁夫にて候。万里の好山に雲|忽《たちま》ちに起り、一楼の明月に雨始めて晴れたり……」
[#ここで字下げ終わり]
と謡うのが、遠いが手に取るように聞えた。――船大工が謡を唄う――ちょっと余所《よそ》にはない気色《けしき》だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤《てんち》である。
脊の伸びたのが枯交《かれまじ》り、疎《まばら》になって、蘆が続く……傍《かたわら》の木納屋《きなや》、苫屋《とまや》の袖には、しおらしく嫁菜の花が咲残る。……あの戸口には、羽衣を奪われた素裸の天女が、手鍋《てなべ》を提げて、その男のために苦労しそうにさえ思われた。
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「これなる松にうつくしき衣《ころも》掛《かか》れり、寄りて見れば色香|妙《たえ》にして……」
[#ここで字下げ終わり]
と謡っている。木納屋の傍《わき》は菜畑で、真中《まんなか》に朱を輝かした柿の樹がのどかに立つ。枝に渡して、ほした大根のかけ紐《ひも》に青貝ほどの小朝顔が縋《すが》って咲いて、つるの下に朝霜の焚火《たきび》の残ったような鶏頭が幽《かすか》に燃えている。その陽だまりは、山霊に心あって、一封のもみじの音信《たより》を投げた、玉章《たまずさ》のように見えた。
里はもみじにまだ早い。
露地が、遠目鏡《とおめがね》を覗《のぞ》く状《さま》に扇形《おうぎなり》に展《ひら》けて視《なが》められる。湖と、船大工と、幻の天女と、描ける玉章を掻乱《かきみだ》すようで、近く歩《あゆみ》を入るるには惜《おし》いほどだったから……
私は――
(これは城崎関弥《きざきせきや》と言う、筆者の友だちが話したのである。)
――道をかえて、たとえば、宿の座敷から湖の向うにほんのりと、薄い霧に包まれた、白砂の小松山の方に向ったのである。
小店の障子に貼紙《はりがみ》して、
(今日より昆布《こぶ》まきあり候。)
……のんびりとしたものだ。口上が嬉しかったが、これから漫歩《そぞろあるき》というのに、こぶ巻は困る。張出しの駄菓子に並んで、笊《ざる》に柿が並べてある。これなら袂《たもと》にも入ろう。「あり候」に挨拶《あいさつ》の心得で、
「おかみさん、この柿は……」
天井裏の蕃椒《とうがらし》は真赤《まっか》だが、薄暗い納戸から、いぼ尻まきの顔を出して、
「その柿かね。へい、食べられましない。」
「はあ?」
「まだ渋が抜けねえだでね。」
「はあ、ではいつ頃食べられます。」
きく奴《やつ》も、聞く奴だが、
「早うて、……来月の今頃だあねえ。」
「成程。」
まったく山家《やまが》はのん気だ。つい目と鼻のさきには、化粧煉瓦《けしょうれんが》で、露台《バルコニイ》と言うのが建っている。別館、あるいは新築と称して、湯宿一軒に西洋づくりの一部は、なくてはならないようにしている盛場でありながら。
「お邪魔をしました。」
「よう、おいで。」
また、おかしな事がある。……くどいと不可《いけな》い。道具だてはしないが、硝
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