らないんだ。ねえ、」
「あれだ、」とお品《しな》は目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、
「まあ、勿體《もつたい》ないわねえ、私達《わたしたち》に何《なん》のお前《まへ》さん……」といひかけて、つく/″\瞻《みまも》りながら、お品《しな》はづツと立《た》つて、與吉《よきち》に向《むか》ひ合《あ》ひ、其《そ》の襷懸《たすきが》けの綺麗《きれい》な腕《かひな》を、兩方《りやうはう》大袈裟《おほげさ》に振《ふ》つて見《み》せた。
「かうやつて威張《ゐば》つてお在《いで》よ。」
「威張《ゐば》らなくツたつて、何《なに》も、威張《ゐば》らなくツたつて構《かま》はないから、父爺《ちやん》が魚《さかな》を食《く》つてくれると可《い》いけれど、」と何《なん》と思《おも》つたか與吉《よきち》はうつむいて悄《しを》れたのである。
「何《ど》うしたんだね、又《また》餘計《よけい》に惡《わる》くなつたの。」と親切《しんせつ》にも優《やさ》しく眉《まゆ》を顰《ひそ》めて聞《き》いた。
「餘計《よけい》に惡《わる》くなつて堪《たま》るもんか、此《この》節《せつ》あ心持《こゝろもち》が快方《いゝはう》だつていふけれど、え、魚氣《さかなつけ》を食《く》はねえぢやあ、身體《からだ》が弱《よわ》るつていふのに、父爺《ちやん》はね、腥《なまぐさ》いものにや箸《はし》もつけねえで、豆腐《とうふ》でなくつちやあならねえツていふんだ。え、おかみさん、骨《ほね》のある豆腐《とうふ》は出來《でき》まいか。」と思出《おもひだ》したやうに唐突《だしぬけ》にいつた。
五
「おや、」
お品《しな》は與吉《よきち》がいふことの餘《あま》り突拍子《とつぴやうし》なのを、笑《わら》ふよりも先《ま》づ驚《おどろ》いたのである。
「ねえ、親方《おやかた》に聞《き》いて見《み》てくんねえ、出來《でき》さうなもんだなあ。雁《がん》もどきツて、ほら、種々《いろん》なものが入《はひ》つた油揚《あぶらあげ》があらあ、銀杏《ぎんなん》だの、椎茸《しひたけ》だの、あれだ、あの中《なか》へ、え、肴《さかな》を入《い》れて交《ま》ぜツこにするてえことあ不可《いけ》ねえのかなあ。」
「そりや、お前《まへ》さん。まあ、可《い》いやね、聞《き》いて見《み》て置《お》きませうよ。」
「あゝ、聞《き》いて見《み》てくんねえ、眞個《ほんと》に肴《さかな》ツ氣《け》が無《な》くツちやあ、臺《だい》なし身體《からだ》が弱《よわ》るツていふんだもの。」
「何故《なぜ》父上《おとつさん》は腥《なまぐさ》をお食《あが》りぢやあないのだね。」
與吉《よきち》の眞面目《まじめ》なのに釣込《つりこ》まれて、笑《わら》ふことの出來《でき》なかつたお品《しな》は、到頭《たうとう》骨《ほね》のある豆腐《とうふ》の注文《ちうもん》を笑《わら》はずに聞《き》き濟《す》ました、そして眞顏《まがほ》で尋《たづ》ねた。
「えゝ、其《その》何《なん》だつて、物《もの》をこそ言《い》はねえけれど、目《め》もあれば、口《くち》もある、それで生白《なまじろ》い色《いろ》をして、蒼《あを》いものもあるがね、煮《に》られて皿《さら》の中《なか》に横《よこ》になつた姿《すがた》てえものは、魚々《さかな/\》と一口《ひとくち》にやあいふけれど、考《かんが》へて見《み》りやあ生身《なまみ》をぐつ/\煮着《につ》けたのだ、尾頭《をかしら》のあるものの死骸《しがい》だと思《おも》ふと、氣味《きみ》が惡《わる》くツて食《た》べられねえツて、左樣《さう》いふんだ。
詰《つま》らねえことを父爺《ちやん》いふもんぢやあねえ、山《やま》ン中《なか》の爺婆《ぢゞばゞ》でも鹽《しほ》したのを食《た》べるツてよ。
煮《に》たのが、心持《こゝろもち》が惡《わる》けりや、刺身《さしみ》にして食《た》べないかツていふとね、身震《みぶるひ》をするんだぜ。刺身《さしみ》ツていやあ一寸試《いつすんだめし》だ、鱠《なます》にすりやぶつ/\切《ぎり》か、あの又《また》目口《めくち》のついた天窓《あたま》へ骨《ほね》が繋《つなが》つて肉《にく》が絡《まと》ひついて殘《のこ》る圖《づ》なんてものは、と厭《いや》な顏《かほ》をするからね。あゝ、」といつて與吉《よきち》は頷《うなづ》いた。これは力《ちから》を入《い》れて對手《あひて》に其《その》意《い》を得《え》させようとしたのである。
「左樣《さう》なんかねえ、年紀《とし》の故《せゐ》もあらう、一《ひと》ツは氣分《きぶん》だね、お前《まへ》さん、そんなに厭《いや》がるものを無理《むり》に食《た》べさせない方《はう》が可《い》いよ、心持《こゝろもち》を惡《わる》くすりや身體《からだ》のたしにもなんにもならないわねえ。」
「でも痩《や》せるやうだから心配《しんぱい》だもの。氣《き》が着《つ》かないやうにして食《た》べさせりや、胸《むね》を惡《わる》くすることもなからうからなあ、いまの豆腐《とうふ》の何《なに》よ。ソレ、」
「骨《ほね》のあるがんもどきかい、ほゝゝゝほゝ、」と笑《わら》つた、垢拔《あかぬ》けのした顏《かほ》に鐵漿《かね》を含《ふく》んで美《うつく》しい。
片頬《かたほ》に觸《ふ》れた柳《やなぎ》の葉先《はさき》を、お品《しな》は其《その》艶《つや》やかに黒《くろ》い前齒《まへば》で銜《くは》へて、扱《こ》くやうにして引斷《ひつき》つた。青《あを》い葉《は》を、カチ/\と二《ふた》ツばかり噛《か》むで手《て》に取《と》つて、掌《てのひら》に載《の》せて見《み》た。トタンに框《かまち》の取着《とツつき》の柱《はしら》に凭《もた》れた淺黄《あさぎ》の手絡《てがら》が此方《こつち》を見向《みむ》く、うら少《わかい》のと面《おもて》を合《あ》はせた。
其《その》時《とき》までは、殆《ほとん》ど自分《じぶん》で何《なに》をするかに心着《こゝろづ》いて居《ゐ》ないやう、無意識《むいしき》の間《あひだ》にして居《ゐ》たらしいが、フト目《め》を留《と》めて、俯向《うつむ》いて、じつと見《み》て、又《また》梢《こずゑ》を仰《あふ》いで、
「與吉《よきち》さんのいふやうぢやあ、まあ、嘸《さぞ》此《こ》の葉《は》も痛《いた》むこツたらうねえ。」
と微笑《ほゝゑ》んで見《み》せて、少《わか》いのが其《その》清《すゞし》い目《め》に留《と》めると、くるりと※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]《まは》つて、空《そら》ざまに手《て》を上《あ》げた、お品《しな》はすつと立《た》つて、しなやかに柳《やなぎ》の幹《みき》を叩《たゝ》いたので、蜘蛛《くも》の巣《す》の亂《みだ》れた薄《うす》い色《いろ》の浴衣《ゆかた》の袂《たもと》は、ひらひらと動《うご》いた。
與吉《よきち》は半被《はつぴ》の袖《そで》を掻合《かきあ》はせて、立《た》つて見《み》て居《ゐ》たが、急《きふ》に振返《ふりかへ》つて、
「さうだ。ぢやあ親方《おやかた》に聞《き》いて見《み》ておくんな。可《い》いかい、」
「あゝ、可《い》いとも、」といつて向直《むきなほ》つて、お品《しな》は掻潛《かいくゞ》つて襷《たすき》を脱《はづ》した。斜《なゝ》めに袈裟《けさ》になつて結目《むすびめ》がすらりと下《さが》る。
「お邪魔《じやま》申《まを》しました。」
「あれだよ。又《また》、」と、莞爾《につこり》していふ。
「さうだつけな、うむ、此方《こつち》あお客《きやく》だぜ。」
與吉《よきち》は獨《ひとり》で頷《うなづ》いたが、背向《うしろむき》になつて、肱《ひぢ》を張《は》つて、南《なん》の字《じ》の印《しるし》が動《うご》く、半被《はつぴ》の袖《そで》をぐツと引《ひ》いて、手《て》を掉《ふ》つて、
「おかみさん、大威張《おほゐばり》だ。」
「あばよ。」
六
「あい、」といひすてに、急足《いそぎあし》で、與吉《よきち》は見《み》る内《うち》に間近《まぢか》な澁色《しぶいろ》の橋《はし》の上《うへ》を、黒《くろ》い半被《はつぴ》で渡《わた》つた。眞中頃《まんなかごろ》で、向岸《むかうぎし》から駈《か》けて來《き》た郵便脚夫《いうびんきやくふ》と行合《ゆきあ》つて、遣違《やりちが》ひに一緒《いつしよ》になつたが、分《わか》れて橋《はし》の兩端《りやうはし》へ、脚夫《きやくふ》はつか/\と間近《まぢか》に來《き》て、與吉《よきち》は彼《か》の、倒《たふ》れながらに半《なか》ば黄《き》ばんだ銀杏《いてふ》の影《かげ》に小《ちひ》さくなつた。
七
「郵便《いうびん》!」
「はい、」と柳《やなぎ》の下《した》で、洗髮《あらひがみ》のお品《しな》は、手足《てあし》の眞黒《まつくろ》な配達夫《はいたつふ》が、突當《つきあた》るやうに目《め》の前《まへ》に踏留《ふみと》まつて棒立《ぼうだち》になつて喚《わめ》いたのに、驚《おどろ》いた顏《かほ》をした。
「更科《さらしな》お柳《りう》さん、」
「手前《てまへ》どもでございます。」
お品《しな》は受取《うけと》つて、青《あを》い状袋《じやうぶくろ》の上書《うはがき》をじつと見《み》ながら、片手《かたて》を垂《た》れて前垂《まへだれ》のさきを抓《つま》むで上《あ》げつゝ、素足《すあし》に穿《は》いた黒緒《くろを》の下駄《げた》を揃《そろ》へて立《た》つてたが、一寸《ちよつと》飜《かへ》して、裏《うら》の名《な》を讀《よ》むと、顏《かほ》の色《いろ》が動《うご》いて、横目《よこめ》に框《かまち》をすかして、片頬《かたほ》に笑《ゑみ》を含《ふく》むで、堪《たま》らないといつたやうな聲《こゑ》で、
「柳《りう》ちやん、來《き》たよ!」といふが疾《はや》いか、横《よこ》ざまに驅《か》けて入《い》る、柳腰《やなぎごし》、下駄《げた》が脱《ぬ》げて、足《あし》の裏《うら》が美《うつく》しい。
八
與吉《よきち》が仕事場《しごとば》の小屋《こや》に入《はひ》ると、例《れい》の如《ごと》く、直《す》ぐ其《その》まゝ材木《ざいもく》の前《まへ》に跪《ひざまづ》いて、鋸《のこぎり》の柄《え》に手《て》を懸《か》けた時《とき》、配達夫《はいたつふ》は、此處《こゝ》の前《まへ》を横切《よこぎ》つて、身《み》を斜《なゝめ》に、波《なみ》に搖《ゆ》られて流《なが》るゝやうな足取《あしどり》で、走《はし》り去《さ》つた。
與吉《よきち》は見《み》も遣《や》らず、傍目《わきめ》も觸《ふ》らないで挽《ひ》きはじめる。
巨大《きよだい》なる此《こ》の樟《くすのき》を濡《ぬ》らさないために、板屋根《いたやね》を葺《ふ》いた、小屋《こや》の高《たか》さは十|丈《ぢやう》もあらう、脚《あし》の着《つ》いた臺《だい》に寄《よ》せかけたのが突立《つツた》つて、殆《ほとん》ど屋根裏《やねうら》に屆《とゞ》くばかり。この根際《ねぎは》に膝《ひざ》をついて、伸上《のびあが》つては挽《ひ》き下《お》ろし、伸上《のびあが》つては挽《ひ》き下《お》ろす、大鋸《おほのこぎり》の齒《は》は上下《うへした》にあらはれて、兩手《りやうて》をかけた與吉《よきち》の姿《すがた》は、鋸《のこぎり》よりも小《ちひ》さいかのやう。
小屋《こや》の中《うち》には單《たゞ》こればかりでなく、兩傍《りやうわき》に堆《うづたか》く偉大《ゐだい》な材木《ざいもく》を積《つ》んであるが、其《そ》の嵩《かさ》は與吉《よきち》の丈《たけ》より高《たか》いので、纔《わづか》に鋸屑《おがくづ》の降積《ふりつも》つた上《うへ》に、小《ちひ》さな身體《からだ》一《ひと》ツ入《い》れるより他《ほか》に餘地《よち》はない。で恰《あたか》も材木《ざいもく》の穴《あな》の底《そこ》に跪《ひざまづ》いてるに過《す》ぎないのである。
背後《うしろ》は突拔《つきぬ》けの岸《きし》で、こゝにも地《つち》と一面《いちめん》な水《みづ》が蒼《あを》く澄《す
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