》むで、ひた/\と小波《さゝなみ》の畝《うねり》が絶《た》えず間近《まぢか》う來《く》る。往來傍《わうらいばた》には又《また》岸《きし》に臨《のぞ》むで、果《はて》しなく組違《くみちが》へた材木《ざいもく》が並《なら》べてあるが、二十三十づゝ、四《よ》ツ目形《めなり》に、井筒形《ゐづつがた》に、規律《きりつ》正《たゞ》しく、一定《いつてい》した距離《きより》を置《お》いて、何處《どこ》までも續《つゞ》いて居《ゐ》る、四《よ》ツ目《め》の間《あひだ》を、井筒《ゐづつ》の彼方《かなた》を、見《み》え隱《かく》れに、ちらほら人《ひと》が通《とほ》るが、皆《みな》默《だま》つて歩行《ある》いて居《ゐ》るので。
 淋《さみし》い、森《しん》とした中《なか》に手拍子《てびやうし》が揃《そろ》つて、コツ/\コツ/\と、鐵槌《かなづち》の音《おと》のするのは、この小屋《こや》に並《なら》んだ、一棟《ひとむね》、同一《おなじ》材木納屋《ざいもくなや》の中《なか》で、三|個《こ》の石屋《いしや》が、石《いし》を鑿《き》るのである。
 板圍《いたがこひ》をして、横《よこ》に長《なが》い、屋根《やね》の低《ひく》い、濕《しめ》つた暗《くら》い中《なか》で、働《はたら》いて居《ゐ》るので、三|人《にん》の石屋《いしや》も齊《ひと》しく南屋《みなみや》に雇《やと》はれて居《ゐ》るのだけれども、渠等《かれら》は與吉《よきち》のやうなのではない、大工《だいく》と一所《いつしよ》に、南屋《みなみや》の普請《ふしん》に懸《かゝ》つて居《ゐ》るので、ちやうど與吉《よきち》の小屋《こや》と往來《わうらい》を隔《へだ》てた眞向《まむか》うに、小《ちひ》さな普請小屋《ふしんごや》が、眞新《まあたらし》い、節穴《ふしあな》だらけな、薄板《うすいた》で建《た》つて居《ゐ》る、三方《さんぱう》が圍《かこ》つたばかり、編《あ》むで繋《つな》いだ繩《なは》も見《み》え、一杯《いつぱい》の日當《ひあたり》で、いきなり土《つち》の上《うへ》へ白木《しらき》の卓子《テエブル》を一|脚《きやく》据《す》ゑた、其《その》上《うへ》には大土瓶《おほどびん》が一|個《こ》、茶呑茶碗《ちやのみぢやわん》が七個《なゝつ》八個《やつ》。
 後《うしろ》に置《お》いた腰掛臺《こしかけだい》の上《うへ》に、一人《ひとり》は匍匐《はらばひ》になつて、肱《ひぢ》を張《は》つて長々《なが/\》と伸《の》び、一人《ひとり》は横《よこ》ざまに手枕《てまくら》して股引《もゝひき》穿《は》いた脚《あし》を屈《かゞ》めて、天窓《あたま》をくツつけ合《あ》つて大工《だいく》が寢《ね》そべつて居《ゐ》る。普請小屋《ふしんごや》と、花崗石《みかげいし》の門柱《もんばしら》を並《なら》べて扉《とびら》が左右《さいう》に開《ひら》いて居《ゐ》る、門《もん》の内《うち》の横手《よこて》の格子《かうし》の前《まへ》に、萌黄《もえぎ》に塗《ぬ》つた中《なか》に南《みなみ》と白《しろ》で拔《ぬ》いたポンプが据《すわ》つて、其《その》縁《ふち》に釣棹《つりざを》と畚《ふご》とがぶらりと懸《かゝ》つて居《ゐ》る、眞《まこと》にもの靜《しづ》かな、大家《たいけ》の店前《みせさき》に人《ひと》の氣勢《けはひ》もない。裏庭《うらには》とおもふあたり、遙《はる》か奧《おく》の方《かた》には、葉《は》のやゝ枯《か》れかゝつた葡萄棚《ぶだうだな》が、影《かげ》を倒《さかしま》にうつして、此處《こゝ》もおなじ溜池《ためいけ》で、門《もん》のあたりから間近《まぢか》な橋《はし》へかけて、透間《すきま》もなく亂杭《らんぐひ》を打《う》つて、數限《かずかぎり》もない材木《ざいもく》を水《みづ》のまゝに浸《ひた》してあるが、彼處《かしこ》へ五|本《ほん》、此處《こゝ》へ六|本《ぽん》、流寄《ながれよ》つた形《かたち》が判《はん》で印《お》した如《ごと》く、皆《みな》三方《さんぱう》から三《みつ》ツに固《かたま》つて、水《みづ》を三角形《さんかくけい》に區切《くぎ》つた、あたりは廣《ひろ》く、一面《いちめん》に早苗田《さなへだ》のやうである。この上《うへ》を、時々《とき/″\》ばら/\と雀《すゞめ》が低《ひく》う。

        九

 其《その》他《た》に此處《こゝ》で動《うご》いてるものは與吉《よきち》が鋸《のこぎり》に過《す》ぎなかつた。
 餘《あま》り靜《しづ》かだから、しばらくして、又《また》しばらくして、樟《くすのき》を挽《ひ》く毎《ごと》にぼろ/\と落《お》つる木屑《きくづ》が判然《はつきり》聞《きこ》える。
(父親《ちやん》は何故《なぜ》魚《さかな》を食《た》べないのだらう、)とおもひながら膝《ひざ》をついて、伸上《のびあが》つて、鋸《のこぎり》を手元《てもと》に引《ひ》いた。木屑《きくづ》は極《きは》めて細《こま》かく、極《きは》めて輕《かる》く、材木《ざいもく》の一處《ひとところ》から湧《わ》くやうになつて、肩《かた》にも胸《むね》にも膝《ひざ》の上《うへ》にも降《ふ》りかゝる。トタンに向《むか》うざまに突出《つきだ》して腰《こし》を浮《う》かした、鋸《のこぎり》の音《おと》につれて、又《また》時雨《しぐれ》のやうな微《かすか》な響《ひゞき》が、寂寞《せきばく》とした巨材《きよざい》の一方《いつぱう》から聞《きこ》えた。
 柄《え》を握《にぎ》つて、挽《ひ》きおろして、與吉《よきち》は呼吸《いき》をついた。
(左樣《さう》だ、魚《さかな》の死骸《しがい》だ、そして骨《ほね》が頭《あたま》に繋《つな》がつたまゝ、皿《さら》の中《なか》に殘《のこ》るのだ、)
 と思《おも》ひながら、絶《た》えず拍子《ひやうし》にかゝつて、伸縮《のびちゞみ》に身體《からだ》の調子《てうし》を取《と》つて、手《て》を働《はたら》かす、鋸《のこぎり》が上下《じやうげ》して、木屑《きくづ》がまた溢《こぼ》れて來《く》る。
(何故《なぜ》だらう、これは鋸《のこぎり》で挽《ひ》く所爲《せゐ》だ、)と考《かんが》へて、柳《やなぎ》の葉《は》が痛《いた》むといつたお品《しな》の言《ことば》が胸《むね》に浮《うか》ぶと、又《また》木屑《きくづ》が胸《むね》にかゝつた。
 與吉《よきち》は薄暗《うすぐら》い中《なか》に居《ゐ》る、材木《ざいもく》と、材木《ざいもく》を積上《つみあ》げた周圍《しうゐ》は、杉《すぎ》の香《か》、松《まつ》の匂《にほひ》に包《つゝ》まれた穴《あな》の底《そこ》で、目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、跪《ひざまづ》いて、鋸《のこぎり》を握《にぎ》つて、空《そら》ざまに仰《あふ》いで見《み》た。
 樟《くすのき》の材木《ざいもく》は斜《なゝ》めに立《た》つて、屋根裏《やねうら》を漏《も》れてちら/\する日光《につくわう》に映《うつ》つて、言《い》ふべからざる森嚴《しんげん》な趣《おもむき》がある。この見上《みあ》ぐるばかりな、これほどの丈《たけ》のある樹《き》はこの邊《あたり》でつひぞ見《み》た事《こと》はない、橋《はし》の袂《たもと》の銀杏《いてふ》は固《もと》より、岸《きし》の柳《やなぎ》は皆《みな》短《ひく》い、土手《どて》の松《まつ》はいふまでもない、遙《はるか》に見《み》える其《その》梢《こずゑ》は殆《ほとん》ど水面《すゐめん》と並《なら》んで居《ゐ》る。
 然《しか》も猶《なほ》これは眞直《まつすぐ》に眞四角《ましかく》に切《きつ》たもので、およそ恁《かゝ》る角《かく》の材木《ざいもく》を得《え》ようといふには、杣《そま》が八|人《にん》五日《いつか》あまりも懸《かゝ》らねばならぬと聞《き》く。
 那《そん》な大木《たいぼく》のあるのは蓋《けだ》し深山《しんざん》であらう、幽谷《いうこく》でなければならぬ。殊《こと》にこれは飛騨山《ひだやま》から※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]《まは》して來《き》たのであることを聞《き》いて居《ゐ》た。
 枝《えだ》は蔓《はびこ》つて、谷《たに》に亙《わた》り、葉《は》は茂《しげ》つて峰《みね》を蔽《おほ》ひ、根《ね》はたゞ一山《ひとやま》を絡《まと》つて居《ゐ》たらう。
 其《その》時《とき》は、其《その》下蔭《したかげ》は矢張《やつぱり》こんなに暗《くら》かつたが、蒼空《あをぞら》に日《ひ》の照《て》る時《とき》も、と然《さ》う思《おも》つて、根際《ねぎは》に居《ゐ》た黒《くろ》い半被《はつぴ》を被《き》た、可愛《かはい》い顏《かほ》の、小《ちひ》さな蟻《あり》のやうなものが、偉大《ゐだい》なる材木《ざいもく》を仰《あふ》いだ時《とき》は、手足《てあし》を縮《ちゞ》めてぞつとしたが、
(父親《ちやん》は何《ど》うしてるだらう、)と考《かんが》へついた。
 鋸《のこぎり》は又《また》動《うご》いて、
(左樣《さう》だ、今頃《いまごろ》は彌六《やろく》親仁《おやぢ》がいつもの通《とほり》、筏《いかだ》を流《なが》して來《き》て、あの、船《ふね》の傍《そば》を漕《こ》いで通《とほ》りすがりに、父上《ちやん》に聲《こゑ》をかけてくれる時分《じぶん》だ、)
 と思《おも》はず振向《ふりむ》いて池《いけ》の方《はう》、うしろの水《みづ》を見返《みかへ》つた。
 溜池《ためいけ》の眞中《まんなか》あたりを、頬冠《ほゝかむり》した、色《いろ》のあせた半被《はつぴ》を着《き》た、脊《せい》の低《ひく》い親仁《おやぢ》が、腰《こし》を曲《ま》げ、足《あし》を突張《つツぱ》つて、長《なが》い棹《さを》を繰《あやつ》つて、畫《ゑ》の如《ごと》く漕《こ》いで來《く》る、筏《いかだ》は恰《あたか》も人《ひと》を乘《の》せて、油《あぶら》の上《うへ》を辷《すべ》るやう。
 する/\と向《むか》うへ流《なが》れて、横《よこ》ざまに近《ちか》づいた、細《ほそ》い黒《くろ》い毛脛《けずね》を掠《かす》めて、蒼《あを》い水《みづ》の上《うへ》を鴎《かもめ》が弓形《ゆみなり》に大《おほ》きく鮮《あざや》かに飛《と》んだ。

        十

「與太坊《よたばう》、父爺《ちやん》は何事《なにごと》もねえよ。」と、池《いけ》の眞中《まんなか》から聲《こゑ》を懸《か》けて、おやぢは小屋《こや》の中《なか》を覗《のぞ》かうともせず、爪《つま》さきは小波《さゝなみ》を浴《あ》ぶるばかり沈《しづ》むだ筏《いかだ》を棹《さを》さして、此《この》時《とき》また中空《なかぞら》から白《しろ》い翼《つばさ》を飜《ひるがへ》して、ひら/\と落《おと》して來《き》て、水《みづ》に姿《すがた》を宿《やど》したと思《おも》ふと、向《むか》うへ飛《と》んで、鴎《かもめ》の去《さ》つた方《かた》へ、すら/\と流《なが》して行《ゆ》く。
 これは彌六《やろく》といつて、與吉《よきち》の父翁《ちゝおや》が年來《ねんらい》の友達《ともだち》で、孝行《かうかう》な兒《こ》が仕事《しごと》をしながら、病人《びやうにん》を案《あん》じて居《ゐ》るのを知《し》つて居《ゐ》るから、例《れい》として毎日《まいにち》今時分《いまじぶん》通《とほ》りがかりに其《その》消息《せうそく》を傳《つた》へるのである。與吉《よきち》は安堵《あんど》して又《また》仕事《しごと》にかゝつた。
(父親《ちやん》は何事《なにごと》もないが、何故《なぜ》魚《さかな》を喰《た》べないのだらう。左樣《さう》だ、刺身《さしみ》は一|寸《すん》だめしで、鱠《なます》はぶつぶつ切《ぎり》だ、魚《うを》の煮《に》たのは、食《た》べると肉《にく》がからみついたまゝ頭《あたま》に繋《つなが》つて、骨《ほね》が殘《のこ》る、彼《あ》の皿《さら》の中《なか》の死骸《しがい》に何《ど》うして箸《はし》がつけられようといつて身震《みぶるひ》をする、まつたくだ。そして魚《さかな》ばかりではない、柳《やなぎ》の葉《は》も食切《くひき》ると痛《いた》むのだ、)と思《おも》ひ/\、
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