二

 其《それ》から日《ひ》一|日《にち》おなじことをして働《はたら》いて、黄昏《たそがれ》かゝると日《ひ》が舂《うすづ》き、柳《やなぎ》の葉《は》が力《ちから》なく低《た》れて水《みづ》が暗《くら》うなると汐《しほ》が退《ひ》く、船《ふね》が沈《しづ》むで、板《いた》が斜《なゝ》めになるのを渡《わた》つて家《いへ》に歸《かへ》るので。
 留守《るす》には、年寄《としよ》つた腰《こし》の立《た》たない與吉《よきち》の爺々《ちやん》が一人《ひとり》で寢《ね》て居《ゐ》るが、老後《らうご》の病《やまひ》で次第《しだい》に弱《よわ》るのであるから、急《きふ》に容體《ようだい》の變《かは》るといふ憂慮《きづかひ》はないけれども、與吉《よきち》は雇《やと》はれ先《さき》で晝飯《ひるめし》をまかなはれては、小休《こやすみ》の間《あひだ》に毎日《まいにち》一|度《ど》づつ、見舞《みまひ》に歸《かへ》るのが例《れい》であつた。
「ぢやあ行《い》つて來《く》るぜ、父爺《ちやん》。」
 與平《よへい》といふ親仁《おやぢ》は、涅槃《ねはん》に入《い》つたやうな形《かたち》で、胴《どう》の間《ま》に寢《ね》ながら、佛造《ほとけづく》つた額《ひたひ》を上《あ》げて、汗《あせ》だらけだけれども目《め》の涼《すゞ》しい、息子《せがれ》が地藏眉《ぢざうまゆ》の、愛《あい》くるしい、若《わか》い顏《かほ》を見《み》て、嬉《うれ》しさうに頷《うなづ》いて、
「晩《ばん》にや又《また》柳屋《やなぎや》の豆腐《とうふ》にしてくんねえよ。」
「あい、」といつて苫《とま》を潛《くゞ》つて這《は》ふやうにして船《ふね》から出《で》た、與吉《よきち》はづツと立《た》つて板《いた》を渡《わた》つた。向《むか》うて筋違《すぢつかひ》、角《かど》から二|軒目《けんめ》に小《ちひ》さな柳《やなぎ》の樹《き》が一|本《ぽん》、其《そ》の低《ひく》い枝《えだ》のしなやかに垂《た》れた葉隱《はがく》れに、一|間口《けんぐち》二|枚《まい》の腰障子《こししやうじ》があつて、一|枚《まい》には假名《かな》、一|枚《まい》には眞名《まな》で豆腐《とうふ》と書《か》いてある。柳《やなぎ》の葉《は》の翠《みどり》を透《す》かして、障子《しやうじ》の紙《かみ》は新《あた》らしく白《しろ》いが、秋《あき》が近《ちか》いから
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