又《また》この偉大《ゐだい》なる樟《くす》の殆《ほとん》ど神聖《しんせい》に感《かん》じらるゝばかりな巨材《きよざい》を仰《あふ》ぐ。
 高《たか》い屋根《やね》は、森閑《しんかん》として日中《ひなか》薄暗《うすぐら》い中《なか》に、ほの/″\と見《み》える材木《ざいもく》から又《また》ぱら/\と、ぱら/\と、其處《そこ》ともなく、鋸《のこぎり》の屑《くづ》が溢《こぼ》れて落《お》ちるのを、思《おも》はず耳《みゝ》を澄《す》まして聞《き》いた。中央《ちうあう》の木目《もくめ》から渦《うづま》いて出《で》るのが、池《いけ》の小波《さゝなみ》のひた/\と寄《よ》する音《おと》の中《なか》に、隣《となり》の納屋《なや》の石《いし》を切《き》る響《ひゞき》に交《まじ》つて、繁《しげ》つた葉《は》と葉《は》が擦合《すれあ》ふやうで、たとへば時雨《しぐれ》の降《ふ》るやうで、又《また》無數《むすう》の山蟻《やまあり》が谷《たに》の中《なか》を歩行《ある》く跫音《あしおと》のやうである。
 與吉《よきち》はとみかうみて、肩《かた》のあたり、胸《むね》のあたり、膝《ひざ》の上《うへ》、跪《ひざまづ》いてる足《あし》の間《あひだ》に落溜《おちたま》つた、堆《うづたか》い、木屑《きくづ》の積《つも》つたのを、樟《くすのき》の血《ち》でないかと思《おも》つてゾツとした。
 今《いま》まで其《その》上《うへ》について暖《あたゝか》だつた膝頭《ひざがしら》が冷々《ひや/\》とする、身體《からだ》が濡《ぬ》れはせぬかと疑《うたが》つて、彼處此處《あちこち》袖《そで》襟《えり》を手《て》で拊《はた》いて見《み》た。仕事最中《しごとさいちう》、こんな心持《こゝろもち》のしたことは始《はじ》めてである。
 與吉《よきち》は、一人《ひとり》谷《たに》のドン底《ぞこ》に居《ゐ》るやうで、心細《こゝろぼそ》くなつたから、見透《みす》かす如《ごと》く日《ひ》の光《ひかり》を仰《あふ》いだ。薄《うす》い光線《くわうせん》が屋根板《やねいた》の合目《あはせめ》から洩《も》れて、幽《かす》かに樟《くす》に映《うつ》つたが、巨大《きよだい》なるこの材木《ざいもく》は唯《たゞ》單《たん》に三尺角《さんじやくかく》のみのものではなかつた。
 與吉《よきち》は天日《てんぴ》を蔽《おほ》ふ、葉《は》の茂《しげ》つた五抱《い
前へ 次へ
全23ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング