《ぶちぬ》く騒動だろう。
もうな、火事と、聞くと頭から、ぐらぐらと胸へ響いた。
騒がぬ顔して、皆《みんな》には、宮浜が急に病気になったから今手当をして来る。かねて言う通り静《しずか》にしているように、と言聞かしておいて、精々落着いて、まず、あの児をこの控所へ連れ出して来たんだ。
処で、気を静めて、と思うが、何分、この風が、時々、かっと赤くなったり、黒くなったりする。な源助どうだ。こりゃ。」
と云う時、言葉が途切れた。二人とも目を据えて瞻《みまも》るばかり、一時《ひとしきり》、屋根を取って挫《ひし》ぐがごとく吹き撲《なぐ》る。
「気が騒いでならんが。」
と雑所は、しっかと腕組をして、椅子の凭《かか》りに、背中を摺着《すりつ》けるばかり、びたりと構えて、
「よく、宮浜に聞いた処が、本人にも何だか分らん、姉さんというのが見知らぬ女で、何も自分の姉という意味では無いとよ。
はじめて逢ったのかと、尋ねる、とそうではない。この七日《なぬか》ばかり前だそうだ。
授業が済んで帰るとなる、大勢列を造って、それな、門まで出る。足並を正さして、私が一二と送り出す……
すると、この頃塗直した、あの蒼《あお》い門の柱の裏に、袖口を口へ当てて、小児《こども》の事で形は知らん。頭髪《かみ》の房々とあるのが、美しい水晶のような目を、こう、俯目《ふしめ》ながら清《すず》しゅう※[#「目+登」、第3水準1−88−91]《みは》って、列を一人一人|見遁《みのが》すまいとするようだっけ。
物見の松はここからも見える……雲のようなはそればかりで、よくよく晴れた暖い日だったと云う……この十四五日、お天気続きだ。
私も、毎日門外まで一同を連出すんだが、七日前にも二日こっちも、ついぞ、そんな娘を見掛けた事はない。しかもお前、その娘が、ちらちらと白い指でめんない千鳥をするように、手招きで引着けるから、うっかり列を抜けて、その傍《そば》へ寄ったそうよ。それを私は何も知らん。
(宮浜の浪ちゃんだねえ。)
とこの国じゃない、本で読むような言《ことば》で聞くとさ。頷《うなず》くと、
(好《い》いものを上げますから私と一所に、さあ、行《ゆ》きましょう、皆《みんな》に構わないで。)
と、私等を構わぬ分に扱ったは酷《ひど》い! なあ、源助。
で、手を取られるから、ついて行《ゆ》くと、どこか、学校からさまで遠くはなかったそうだ。荒れには荒れたが、大きな背戸へ裏木戸から連込んで、茱萸《ぐみ》の樹の林のような中へ連れて入った。目の※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《ふち》も赤らむまで、ほかほかとしたと云う。で、自分にも取れば、あの児にも取らせて、そして言う事が妙ではないか。
(沢山《たんと》お食《あが》んなさいよ。皆《みんな》、貴下《あなた》の阿母《おっか》さんのような美しい血になるから。)
と言ったんだそうだ。土産にもくれた。帰って誰が下すった、と父《おやじ》にそう言いましょうと、聞くと、
(貴下のお亡《なく》なんなすった阿母《おっかさん》のお友だちです。)
と言ったってな。あの児の母親はなくなった筈《はず》だ。
が、ここまではとにかく無事だ、源助。
その婦人が、今朝また、この学校へ来たんだとな。」
源助は、びくりとして退《さが》る。
「今度は運動場。で、十時の算術が済んだ放課の時だ。風にもめげずに皆《みんな》駆出すが、ああいう児だから、一人で、それでも遊戯さな……石盤へこう姉様《あねさま》の顔を描《か》いていると、硝子戸越《がらすどごし》に……夢にも忘れない……その美しい顔を見せて、外へ出るよう目で教える……一度逢ったばかりだけれども、小児は一目顔を見ると、もうその心が通じたそうよ。」
七
「宮浜はな、今日は、その婦人が紅《あか》い木《こ》の実の簪《かんざし》を挿していた、やっぱり茱萸《ぐみ》だろうと云うが、果物の簪は無かろう……小児《こども》の目だもの、珊瑚《さんご》かも知れん。
そんな事はとにかくだ。
直ぐに、嬉々《いそいそ》と廊下から大廻りに、ちょうど自分の席の窓の外。その婦人の待っている処へ出ると、それ、散々に吹散らされながら、小児が一杯、ふらふらしているだろう。
源助、それ、近々に学校で――やがて暑さにはなるし――余り青苔《あおごけ》が生えて、石垣も崩れたというので、井戸側《いどがわ》を取替えるに、石の大輪《おおわ》が門の内にあったのを、小児だちが悪戯《いたずら》に庭へ転がし出したのがある。――あれだ。
大人なら知らず、円くて辷《すべ》るにせい、小児が三人や五人ではちょっと動かぬ。そいつだが、婦人が、あの児《こ》を連れて、すっと通ると、むくりと脈を打ったように見えて、ころころと芝の上を斜違《はすっか》いに転がり出した。
(やあい、井戸側が風で飛ばい。)か、何か、哄《どっ》と吶喊《とき》を上げて、小児が皆《みんな》それを追懸けて、一団《ひとかたまり》に黒くなって駆出すと、その反対の方へ、誰にも見着けられないで、澄まして、すっと行ったと云うが、どうだ、これも変だろう。
横手の土塀際の、あの棕櫚《しゅろ》の樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙って背《せなか》を撫《な》でなぞしてな。
そこで言聞かされたと云うんだ。
(今に火事がありますから、早く家《うち》へお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますかッて肯《き》きなさらないかも知れません。黙ってずんずん帰って可《よ》うござんす。怪我《けが》には替えられません。けれども、後で叱られると不可《いけ》ませんから、なりたけお許しをうけてからになさいましよ。
時刻はまだ大丈夫だとは思いますが、そんな、こんなで帰りが遅れて、途中、もしもの事があったら、これをめしあがれよ。そうすると烟《けむ》に捲《ま》かれませんから。)
とそう云ってな。……そこで、袂《たもと》から紙包みのを出して懐中《ふところ》へ入れて、圧《おさ》えて、こう抱寄せるようにして、そして襟を掻合《かきあわ》せてくれたのが、その茱萸《ぐみ》なんだ。
(私がついていられると可《い》いんだけれど、姉さんは、今日は大事な日ですから。)
と云う中《うち》にも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらと懸《かか》る、と黒雲が走るようで、はらりと吹分ける、と月が出たように白い頬が見えたと云う……
けれども、見えもせぬ火事があると、そんな事は先生には言憎《いいにく》い、と宮浜が頭《かぶり》を振ったそうだ。
(では、浪ちゃんは、教師さんのおっしゃる事と、私の言う事と、どっちをほんとうだと思います。――)
こりゃ小児《こども》に返事が出来なかったそうだが、そうだろう……なあ、無理はない、源助。
(先生のお言《ことば》に嘘はありません。けれども私の言う事はほんとうです……今度の火事も私の気でどうにもなる。――私があるものに身を任せれば、火は燃えません。そのものが、思《おもい》の叶《かな》わない仇《あだ》に、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるように面当《つらあ》てにしますんだから。
まあ、これだって、浪ちゃんが先生にお聞きなされば、自分の身体《からだ》はどうなってなりとも、人も家も焼けないようにするのが道だ、とおっしゃるでしょう。
殿方の生命《いのち》は知らず、女の操というものは、人にも家にもかえられぬ。……と私はそう思うんです。そう私が思う上は、火事がなければなりません。今云う通り、私へ面当てに焼くのだから。
まだ私たち女の心は、貴下《あなた》の年では得心が行《ゆ》かないで、やっぱり先生がおっしゃるように、我身を棄てても、人を救うが道理のように思うでしょう。
いいえ、違います……殿方の生命は知らず。)
と繰返して、
(女の操というものは。)と熟《じっ》と顔を凝視《みつ》めながら、
(人にも家にも代えられない、と浪ちゃん忘れないでおいでなさい。今に分ります……紅《あか》い木の実を沢山《たんと》食べて、血の美しく綺麗な児《こ》には、そのかわり、火の粉も桜の露となって、美しく降るばかりですよ。さ、いらっしゃい、早く。気を着けて、私の身体《からだ》も大切な日ですから。)
と云う中《うち》にも、裾《すそ》も袂も取って、空へ頭髪《かみ》ながら吹上げそうだったってな。これだ、源助、窓硝子《まどがらす》が波を打つ、あれ見い。」
八
雑所先生は一息|吐《つ》いて、
「私が問うのに答えてな、あの宮浜はかねて記憶の可《い》い処を、母のない児《こ》だ。――優しい人の言う事は、よくよく身に染みて覚えたと見えて、まるで口移しに諳誦《あんしょう》をするようにここで私に告げたんだ。が、一々、ぞくぞく膚《はだ》に粟《あわ》が立った。けれども、その婦人の言う、謎のような事は分らん。
そりゃ分らんが、しかし詮《せん》ずるに火事がある一条だ。
(まるで嘘とも思わんが、全く事実じゃなかろう、ともかく、小使溜《こづかいだまり》へ行って落着いていなさい、ちっと熱もある。)
額を撫《な》でて見ると熱いから、そこで、あの児をそららへ遣《や》ってよ。
さあ、気になるのは昨夜《ゆうべ》の山道の一件だ。……赤い猿、赤い旗な、赤合羽を着た黒坊主よ。」
「緋《ひ》、緋の法衣《ころも》を着たでござります、赤合羽ではござりません。魔、魔の人でござりますが。」とガタガタ胴震いをしながら、躾《たしな》めるように言う。
「さあ、何か分らぬが、あの、雪に折れる竹のように、バシリとした声して……何と云った。
(城下を焼きに参るのじゃ。)
源助、宮浜の児を遣ったあとで、天窓《あたま》を引抱《ひっかか》えて、こう、風の音を忘れるように沈《じっ》と考えると、ひょい、と火を磨《す》るばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」
と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、楷書《かいしょ》で細字《さいじ》に認《したた》めたのが、輝くごとく、もそりと出した源助の顔に赫《か》ッと照って見えたのは、朱で濃く、一面の文字《もんじ》である。
「へい。」
「な、何からはじまった事だか知らんが、ちょうど一週間前から、ふと朱でもって書き続けた、こりゃ学校での、私の日記だ。
昨日《きのう》は日曜で抜けている。一週間。」
と颯《さっ》と紙が刎《は》ねて、小口をばらばらと繰返すと、戸外《おもて》の風の渦巻に、一ちぎれの赤い雲が卓子《テエブル》を飛ぶ気勢《けはい》する。
「この前の時間にも、(暴風)に書いて消して(烈風)をまた消して(颶風《ぐふう》)なり、と書いた、やっぱり朱で、見な……
しかも変な事には、何を狼狽《うろたえ》たか、一枚半だけ、罫紙《けいし》で残して、明日の分を、ここへ、これ(火曜)としたぜ。」
と指す指が、ひッつりのように、びくりとした。
「読本が火の処……源助、どう思う。他《ほか》の先生方は皆《みん》な私より偉いには偉いが年下だ。校長さんもずッとお少《わか》い。
こんな相談は、故老《ころう》に限ると思って呼んだ。どうだろう。万一の事があるとなら、あえて宮浜の児一人でない。……どれも大事な小児《こども》たち――その過失《あやまち》で、私が学校を止《や》めるまでも、地※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]《じだんだ》を踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育を委《ゆだ》ねる学校の分として、婦《おんな》、小児《こども》や、茱萸《ぐみ》ぐらいの事で、臨時休業は沙汰《さた》の限りだ。
私一人の間抜《まぬけ》で済まん。
第一そような迷信は、任《にん》として、私等が破って棄ててやらなけりゃならんのだろう。そうかッてな、もしやの事があるとすると、何より恐ろしいのはこの風だよ。ジャンと来て見ろ、全市|瓦《かわら》は数えるほど、板葺屋根《いたぶきやね》が半月の上も照込んで、焚附《たきつけ》同様。――何と私等が高台の
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