町では、時ならぬ水切《みずぎれ》がしていようという場合ではないか。土の底まで焼抜《やきぬ》けるぞ。小児たちが無事に家へ帰るのは十人に一人もむずかしい。
思案に余った、源助。気が気でないのは、時が後《おく》れて驚破《すわ》と言ったら、赤い実を吸え、と言ったは心細い――一時半時《いっときはんじ》を争うんだ。もし、ひょんな事があるとすると――どう思う、どう思う、源助、考慮《かんがえ》は。」
「尋常《ただ》、尋常ごとではござりません。」と、かッと卓子《テエブル》に拳《こぶし》を掴《つか》んで、
「城下の家の、寿命が来たんでござりましょう、争われぬ、争われぬ。」
と半分目を眠って、盲目《めくら》がするように、白眼《しろまなこ》で首を据えて、天井を恐ろしげに視《なが》めながら、
「ものはあるげにござりまして……旧藩頃の先主人が、夜学の端に承わります。昔その唐《から》の都の大道を、一時《あるとき》、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪を捌《さば》いて、何と、骨だらけな蒼《あお》い胸を岸破々々《がばがば》と開けました真中《まんなか》へ、人《ひ》、人《ひと》という字を書いたのを掻開《かっぱだ》けて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の事か分りません。唐の都でも、皆《みん》なが不思議がっておりますると、その日から三日目に、年代記にもないほどな大火事が起りまして。」
「源助、源助。」
と雑所大きに急《せ》いて、
「何だ、それは。胸へ人という字を書いたのは。」とかかる折から、自分で考えるのがまだるこしそうであった。
「へい、まあ、ちょいとした処、早いが可《よ》うございます。ここへ、人と書いて御覧じゃりまし。」
風の、その慌《あわただ》しい中でも、対手《あいて》が教頭心得の先生だけ、もの問《とわ》れた心の矜《ほこり》に、話を咲せたい源助が、薄汚れた襯衣《しゃつ》の鈕《ぼたん》をはずして、ひくひくとした胸を出す。
雑所も急心《せきごころ》に、ものをも言わず有合わせた朱筆《しゅふで》を取って、乳を分けて朱《あか》い人。と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめて堪《こら》えたが、突込む筆の朱が刎《は》ねて、勢《いきおい》で、ぱっと胸毛に懸《かか》ると、火を曳《ひ》くように毛が動いた。
「あ熱々《つつ》!」
と唐突《だしぬけ》に躍り上って、とんと尻餅を支《つ》くと、血声を絞って、
「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」と喚《わめ》く。
「何だ。」
と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、
「なぜ、投げる。なぜ茱萸《ぐみ》を投附ける。宮浜。」
と声を揚げた。廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を擲《なげう》つと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子《まどがらす》を映《さ》す火の粉であった。
途端に十二時、鈴《りん》を打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦《すりばん》、早鐘。
早や廊下にも烟《けむり》が入って、暗い中から火の空を透かすと、学校の蒼《あお》い門が、真紫に物凄《ものすご》い。
この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の巨刹《おおでら》の本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ三時《みとき》が間に市の約全部を焼払った。
烟は風よりも疾《と》く、火は鳥よりも迅《はや》く飛んだ。
人畜の死傷少からず。
火事の最中、雑所先生、袴《はかま》の股立《ももだち》を、高く取ったは効々《かいがい》しいが、羽織も着ず……布子の片袖|引断《ひっちぎ》れたなりで、足袋跣足《たびはだし》で、据眼《すえまなこ》の面《おもて》藍《あい》のごとく、火と烟の走る大道を、蹌踉《ひょろひょろ》と歩行《ある》いていた。
屋根から屋根へ、――樹の梢《こずえ》から、二階三階が黒烟りに漾《ただよ》う上へ、飜々《ひらひら》と千鳥に飛交う、真赤《まっか》な猿の数を、行《ゆ》く行く幾度も見た。
足許《あしもと》には、人も車も倒れている。
とある十字街へ懸《かか》った時、横からひょこりと出て、斜《はす》に曲り角へ切れて行《ゆ》く、昨夜《ゆうべ》の坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るように確《しか》とした足取であった。
が、赤旗を捲《ま》いて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡《しゅんじゅん》の体《てい》して、
「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」
と口の裡《うち》で呟《つぶや》いた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。
垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠《いしどうろう》の大《おおき》なのがある。何某《なにがし》の邸《やしき》の庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹の下《もと》に、小さな足を投出して、横坐りになった、浪吉の無事な姿を見た。
学校は、便宜に隊を組んで避難したが、皆ちりちりになったのである。
と見ると、恍惚《うっとり》した美しい顔を仰向けて、枝からばらばらと降懸《ふりかか》る火の粉を、霰《あられ》は五合《ごんご》と掬《すく》うように、綺麗な袂《たもと》で受けながら、
「先生、沢山に茱萸が。」
と云って、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]長《ろうた》けるまで莞爾《にっこり》した。
雑所は諸膝《もろひざ》を折って、倒れるように、その傍《かたわら》で息を吐《つ》いた。が、そこではもう、火の粉は雪のように、袖へ掛《かか》っても、払えば濡れもしないで消えるのであった。
[#地から1字上げ]明治四十四(一九一一)年一月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年11月24日作成
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