の実の、枝も撓々《たわわ》な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目に着くのである。
「家《うち》から持ってござったか。教場へ出て何の事じゃ、大方そのせいで雑所様に叱られたものであろう。まあ、大人しくしていなさい、とそう云うてやりまして、実は何でござります。……あの児《こ》のお詫《わび》を、と間を見ておりました処を、ちょうどお召でござりまして、……はい。何も小児でござります。日頃が日頃で、ついぞ世話を焼かした事の無い、評判の児でござりまするから、今日《こんにち》の処は、源助、あの児になりかわりまして御訴訟。はい、気が小さいかいたして、口も利けずに、とぼんとして、可哀《かわい》や、病気にでもなりそうに見えまするがい。」と揉手《もみで》をする。
「どうだい、吹く事は。酷《ひど》いぞ。」
 と窓と一所に、肩をぶるぶると揺《ゆす》って、卓子《テエブル》の上へ煙管《きせる》を棄《す》てた。
「源助。」
 と再度|更《あらたま》って、
「小児《こども》が懐中《ふところ》の果物なんか、袂《たもと》へ入れさせれば済む事よ。
 どうも変に、気に懸《かか》る事があってな、小児どころか、お互に、大人が、とぼんとならなければ可《い》いが、と思うんだ。
 昨日夢を見た。」
 と注《つ》いで置きの茶碗に残った、冷《つめた》い茶をがぶりと飲んで、
「昨日な、……昨夜《ゆうべ》とは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。」
「山道の夢でござりまするな。」
「否《や》、実際山を歩行《ある》いたんだ。それ、日曜さ、昨日は――源助、お前は自《おのず》から得ている。私は本と首引《くびッぴ》きだが、本草《ほんぞう》が好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい浮々《うかうか》と谷々へ釣込まれて。
 こりゃ途中で暗くならなければ可《い》いが、と山の陰がちと憂慮《きづか》われるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」

       四

「山時分じゃないから人ッ子に逢《あ》わず。また茸狩《たけがり》にだって、あんなに奥まで行《ゆ》くものはない。随分|路《みち》でもない処を潜ったからな。三ツばかり谷へ下りては攀上《よじのぼ》り、下りては攀上りした時は、ちと心細くなった。昨夜《ゆうべ》は野宿かと思ったぞ。
 でもな、秋とは違って、日の入《いり》が遅いから、まあ、可《よ》かった。やっと旧道に繞《めぐ》って出たのよ。
 今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、脚絆掛《きゃはんがけ》で、すたすた来ると、幽《かすか》に城が見えて来た。城の方にな、可厭《いや》な色の雲が出ていたには出ていたよ――この風になったんだろう。
 その内に、物見の松の梢《こずえ》の尖《さき》が目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの見霽《みはら》しの丘へ出る。……後は一雪崩《ひとなだれ》にずるずると屋敷町の私の内へ、辷《すべ》り込まれるんだ、と吻《ほっ》と息をした。ところがまた、知ってる通り、あの一町場《ひとちょうば》が、一方谷、一方|覆被《おっかぶ》さった雑木林で、妙に真昼間《まっぴるま》も薄暗い、可厭《いや》な処じゃないか。」
「名代《なだい》な魔所でござります。」
「何か知らんが。」
 と両手で頤《あご》を扱《しご》くと、げっそり瘠《や》せたような顔色《かおつき》で、
「一《ひと》ッきり、洞穴《ほらあな》を潜《くぐ》るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄《もや》も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。
 ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖《がけ》の中腹ぐらいな処を、熊笹《くまざさ》の上へむくむくと赤いものが湧《わ》いて出た。幾疋《いくひき》となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱《うろ》つくように……皆《みんな》猿だ。
 丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王《さんのう》の社《やしろ》がある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが――別に猿というに驚くこともなし、また猿の面《つら》の赤いのに不思議はないがな、源助。
 どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤《まっか》だろう。
 しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと群《むらが》り続いて、裏山の峰へ尾を曳《ひ》いて、遥《はる》かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜《くぐ》ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。
 で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻《あかあり》の行列を山へ投懸けて視《なが》めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。
 夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」
 源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、頤《あご》の毛をすくすくと立てた。
「はあ。」
 と息を内へ引きながら、
「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」
「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。
 そこへな、背後《うしろ》の、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、大跨《おおまた》に前へ抜越《ぬけこ》したものがある。……
 山遊びの時分には、女も駕籠《かご》も通る。狭くはないから、肩摺《かたず》れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停《たちど》まる処を、抜けた。
 下闇《したやみ》ながら――こっちももう、僅《わず》かの処だけれど、赤い猿が夥《おびただ》しいので、人恋しい。
 で透かして見ると、判然《はっきり》とよく分った。
 それも夢かな、源助、暗いのに。――
 裸体《はだか》に赤合羽《あかがっぱ》を着た、大きな坊主だ。」
「へい。」と源助は声を詰めた。
「真黒《まっくろ》な円い天窓《あたま》を露出《むきだし》でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張《しゃちこば》らせる形に、大《おおき》な肱《ひじ》を、ト鍵形《かぎなり》に曲げて、柄の短い赤い旗を飜々《ひらひら》と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。……
 旗《はた》は真赤《まっか》に宙を煽《あお》つ。
 まさかとは思う……ことにその言った通り人恋しい折からなり、対手《あいて》の僧形《そうぎょう》にも何分《なにぶん》か気が許されて、
(御坊、御坊。)
 と二声ほど背後《うしろ》で呼んだ。」

       五

「物凄《ものすご》さも前《さき》に立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。
 顔は覚えぬが、頤《あご》も額も赤いように思った。
(どちらへ?)
 と直ぐに聞いた。
 ト竹を破《わ》るような声で、
(城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て脚許《あしもと》へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲《ま》いたようにな、源助。」
「…………」小使は口も利かず。
「その時、旗を衝《つ》と上げて、
(物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、飜然《ひらり》と返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の梢《こずえ》へ颯《さっ》と飛移ったかと思う、旗の煽《あお》つような火が松明《たいまつ》を投附けたように※[#「火+發」、463−5]《ぱっ》と燃え上る。顔も真赤《まっか》に一面の火になったが、遥《はる》かに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、丁子頭《ちょうじがしら》が揺れるように見て、気が静《しずま》ると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる状《さま》になくなったんだ。
 小児《こども》が転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも怯《おび》えた声を出して、
(わっ。)と云ってな、三反ばかり山路《やまみち》の方へ宙を飛んで遁出《にげだ》したと思え。
 はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目《わきめ》も触《ふ》らず、坊主が立ったと思う処は爪立足《つまだちあし》をして、それから、お前、前の峰を引掻《ひっか》くように駆上《かけあが》って、……ましぐらにまた摺落《ずりお》ちて、見霽《みはら》しへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして視《なが》めている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白《あおじろ》い中に、松の樹はお前、大蟹《おおがに》が海松房《みるぶさ》を引被《ひっかず》いて山へ這出《はいで》た形に、しっとりと濡れて薄靄《うすもや》が絡《まと》っている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを……場末で遅廻りの豆腐屋の声が、幽《かすか》に聞えようというのじゃないか。
 話にならん。いやしくも小児《こども》を預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐に魅《つま》まれたような気持で、……家内にさえ、話も出来ん。
 帰って湯に入って、寝たが、綿《わた》のように疲れていながら、何か、それでも寝苦《ねぐるし》くって時々早鐘を撞《つ》くような音が聞えて、吃驚《びっくり》して目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。
 明方からこの風さな。」
「正寅《しょうとら》の刻からでござりました、海嘯《つなみ》のように、どっと一時《いっとき》に吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助の言《ことば》つき、あたかも口上。何か、恐入っている体《てい》がある。
「夜があけると、この砂煙《すなけぶり》。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本《とくほん》の課目なんだ。
 な、源助。
 授業に掛《かか》って、読出した処が、怪訝《おかし》い。消火器の説明がしてある、火事に対する種々《いろいろ》の設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も経《た》ったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの児《こ》が入って来たんだ。」
「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」
「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。……朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。――この硝子窓《がらすまど》の並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。
 また、箸《はし》の倒れた事でも、沸返《にえかえ》って騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったも怪《あやし》いよ。
 ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと動揺《どよ》めいたが、その音も戸外《おもて》の風に吹攫《ふきさら》われて、どっと遠くへ、山へ打《ぶ》つかるように持って行《ゆ》かれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、小児等《こどもら》の声は幽《かすか》に響いた。……」

       六

「私《わし》も不意だから、変に気を抜かれたようになって、とぼんと、あの可愛らしい綺麗な児《こ》を見たよ。
 密《そっ》と椅子の傍《そば》へ来て、愛嬌《あいきょう》づいた莞爾《にっこり》した顔をして、
(先生、姉さんが。)
 と云う。――姉さんが来て、今日は火が燃える、大火事があって危ないから、早仕舞《はやじまい》にしてお帰りなさい。先生にそうお願いして、と言いますから……家《うち》へ帰らして下さい、と云うんです。含羞《はにか》む児だから、小さな声して。
 風はこれだ。
 聞えないで僥倖《さいわい》。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を打抜
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