り》が遅いから、まあ、可《よ》かった。やっと旧道に繞《めぐ》って出たのよ。
 今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、脚絆掛《きゃはんがけ》で、すたすた来ると、幽《かすか》に城が見えて来た。城の方にな、可厭《いや》な色の雲が出ていたには出ていたよ――この風になったんだろう。
 その内に、物見の松の梢《こずえ》の尖《さき》が目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの見霽《みはら》しの丘へ出る。……後は一雪崩《ひとなだれ》にずるずると屋敷町の私の内へ、辷《すべ》り込まれるんだ、と吻《ほっ》と息をした。ところがまた、知ってる通り、あの一町場《ひとちょうば》が、一方谷、一方|覆被《おっかぶ》さった雑木林で、妙に真昼間《まっぴるま》も薄暗い、可厭《いや》な処じゃないか。」
「名代《なだい》な魔所でござります。」
「何か知らんが。」
 と両手で頤《あご》を扱《しご》くと、げっそり瘠《や》せたような顔色《かおつき》で、
「一《ひと》ッきり、洞穴《ほらあな》を潜《くぐ》るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄《もや》も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。
 ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖《がけ》の中腹ぐらいな処を、熊笹《くまざさ》の上へむくむくと赤いものが湧《わ》いて出た。幾疋《いくひき》となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱《うろ》つくように……皆《みんな》猿だ。
 丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王《さんのう》の社《やしろ》がある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが――別に猿というに驚くこともなし、また猿の面《つら》の赤いのに不思議はないがな、源助。
 どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤《まっか》だろう。
 しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと群《むらが》り続いて、裏山の峰へ尾を曳《ひ》いて、遥《はる》かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜《くぐ》ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。
 で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻《あかあり》の行列を山へ投懸けて視《なが》めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。
 夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」
 源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、頤《あご》の毛をすくすくと立てた。
「はあ。」
 と息を内へ引きながら、
「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」
「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。
 そこへな、背後《うしろ》の、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、大跨《おおまた》に前へ抜越《ぬけこ》したものがある。……
 山遊びの時分には、女も駕籠《かご》も通る。狭くはないから、肩摺《かたず》れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停《たちど》まる処を、抜けた。
 下闇《したやみ》ながら――こっちももう、僅《わず》かの処だけれど、赤い猿が夥《おびただ》しいので、人恋しい。
 で透かして見ると、判然《はっきり》とよく分った。
 それも夢かな、源助、暗いのに。――
 裸体《はだか》に赤合羽《あかがっぱ》を着た、大きな坊主だ。」
「へい。」と源助は声を詰めた。
「真黒《まっくろ》な円い天窓《あたま》を露出《むきだし》でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張《しゃちこば》らせる形に、大《おおき》な肱《ひじ》を、ト鍵形《かぎなり》に曲げて、柄の短い赤い旗を飜々《ひらひら》と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。……
 旗《はた》は真赤《まっか》に宙を煽《あお》つ。
 まさかとは思う……ことにその言った通り人恋しい折からなり、対手《あいて》の僧形《そうぎょう》にも何分《なにぶん》か気が許されて、
(御坊、御坊。)
 と二声ほど背後《うしろ》で呼んだ。」

       五

「物凄《ものすご》さも前《さき》に立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。
 顔は覚えぬが、頤《あご》も額も赤いように思った。
(どちらへ?)
 と直ぐに聞いた。
 ト竹を破《わ》るような声で、
(城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て脚許《あしもと》へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲《ま》いたようにな、源助。」
「…
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