………」小使は口も利かず。
「その時、旗を衝《つ》と上げて、
(物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、飜然《ひらり》と返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の梢《こずえ》へ颯《さっ》と飛移ったかと思う、旗の煽《あお》つような火が松明《たいまつ》を投附けたように※[#「火+發」、463−5]《ぱっ》と燃え上る。顔も真赤《まっか》に一面の火になったが、遥《はる》かに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、丁子頭《ちょうじがしら》が揺れるように見て、気が静《しずま》ると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる状《さま》になくなったんだ。
小児《こども》が転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも怯《おび》えた声を出して、
(わっ。)と云ってな、三反ばかり山路《やまみち》の方へ宙を飛んで遁出《にげだ》したと思え。
はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目《わきめ》も触《ふ》らず、坊主が立ったと思う処は爪立足《つまだちあし》をして、それから、お前、前の峰を引掻《ひっか》くように駆上《かけあが》って、……ましぐらにまた摺落《ずりお》ちて、見霽《みはら》しへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして視《なが》めている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白《あおじろ》い中に、松の樹はお前、大蟹《おおがに》が海松房《みるぶさ》を引被《ひっかず》いて山へ這出《はいで》た形に、しっとりと濡れて薄靄《うすもや》が絡《まと》っている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを……場末で遅廻りの豆腐屋の声が、幽《かすか》に聞えようというのじゃないか。
話にならん。いやしくも小児《こども》を預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐に魅《つま》まれたような気持で、……家内にさえ、話も出来ん。
帰って湯に入って、寝たが、綿《わた》のように疲れていながら、何か、それでも寝苦《ねぐるし》くって時々早鐘を撞《つ》くような音が聞えて、吃驚《びっくり》して目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。
明方からこの風さな。」
「正寅《しょうとら》の刻からでござりました、海嘯《つなみ》のように、どっと一時《いっとき》に吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助の言《ことば》つき、あたかも口上。何か、恐入っている体《てい》がある。
「夜があけると、この砂煙《すなけぶり》。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本《とくほん》の課目なんだ。
な、源助。
授業に掛《かか》って、読出した処が、怪訝《おかし》い。消火器の説明がしてある、火事に対する種々《いろいろ》の設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も経《た》ったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの児《こ》が入って来たんだ。」
「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」
「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。……朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。――この硝子窓《がらすまど》の並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。
また、箸《はし》の倒れた事でも、沸返《にえかえ》って騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったも怪《あやし》いよ。
ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと動揺《どよ》めいたが、その音も戸外《おもて》の風に吹攫《ふきさら》われて、どっと遠くへ、山へ打《ぶ》つかるように持って行《ゆ》かれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、小児等《こどもら》の声は幽《かすか》に響いた。……」
六
「私《わし》も不意だから、変に気を抜かれたようになって、とぼんと、あの可愛らしい綺麗な児《こ》を見たよ。
密《そっ》と椅子の傍《そば》へ来て、愛嬌《あいきょう》づいた莞爾《にっこり》した顔をして、
(先生、姉さんが。)
と云う。――姉さんが来て、今日は火が燃える、大火事があって危ないから、早仕舞《はやじまい》にしてお帰りなさい。先生にそうお願いして、と言いますから……家《うち》へ帰らして下さい、と云うんです。含羞《はにか》む児だから、小さな声して。
風はこれだ。
聞えないで僥倖《さいわい》。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を打抜
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