朱日記
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小使《こづかい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)職員室|真中《まんなか》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+發」、463−5]
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一
「小使《こづかい》、小ウ使。」
程もあらせず、……廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、静《しずか》に教員控所の板戸の前へ敷居越に髯面《ひげづら》……というが頤《あご》頬《ほお》などに貯えたわけではない。不精で剃刀《かみそり》を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭《ごましおあたま》で、眉の迫った渋色の真正面《まっしょうめん》を出したのは、苦虫と渾名《あだな》の古物《こぶつ》、但し人の好《い》い漢《おとこ》である。
「へい。」
とただ云ったばかり、素気《そっけ》なく口を引結んで、真直《まっすぐ》に立っている。
「おお、源助か。」
その職員室|真中《まんなか》の大卓子《おおテエブル》、向側の椅子《いす》に凭《かか》った先生は、縞《しま》の布子《ぬのこ》、小倉《こくら》の袴《はかま》、羽織は袖《そで》に白墨|摺《ずれ》のあるのを背後《うしろ》の壁に遣放《やりぱな》しに更紗《さらさ》の裏を捩《よじ》ってぶらり。髪の薄い天窓《あたま》を真俯向《まうつむ》けにして、土瓶やら、茶碗やら、解《とき》かけた風呂敷包、混雑《ごった》に職員のが散《ちら》ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱《すずりばこ》を右手《めて》へ引附け、一冊覚書らしいのを熟《じっ》と視《なが》めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆《たか》い、髯の無い、頤《おとがい》の細い、眉のくっきりした顔を上げた、雑所《ざいしょ》という教頭心得《きょうとうこころえ》。何か落着かぬ色で、
「こっちへ入れ。」
と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。
意味ありげな体《てい》なり。茶碗を洗え、土瓶に湯を注《さ》せ、では無さそうな処から、小使もその気構《きがまえ》で、卓子《テエブル》の角《かど》へ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、
「御用で?」
「何は、三右衛門《さんえもん》は。」と聞いた。
これは背の抜群に高い、年紀《とし》は源助より大分|少《わか》いが、仔細《しさい》も無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと剃附《そりつ》けた青道心《あおどうしん》の、いつも莞爾々々《にこにこ》した滑稽《おど》けた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。
「同役(といつも云う、士《さむらい》の果《はて》か、仲間《ちゅうげん》の上りらしい。)は番でござりまして、唯今《ただいま》水瓶《みずがめ》へ水を汲込《くみこ》んでおりまするが。」
「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」
と云う。閉込《しめこ》んだ硝子窓《がらすまど》がびりびりと鳴って、青空へ灰汁《あく》を湛《たた》えて、上から揺《ゆす》って沸立たせるような凄《すさ》まじい風が吹く。
その窓を見向いた片頬《かたほ》に、颯《さっ》と砂埃《すなほこり》を捲《ま》く影がさして、雑所は眉を顰《ひそ》めた。
「この風が、……何か、風……が烈《はげ》しいから火の用心か。」
と唐突《だしぬけ》に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。
「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」
と例の渋い顔で、横手の柱に掛《かか》ったボンボン時計を睨《にら》むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時間がもうちっと経《た》っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて瞻《みつ》めたもので。――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。
そう言えば、全校の二階、下階《した》、どの教場からも、声一つ、咳《しわぶき》半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午《ひる》になる一時間ほど、寂寞《ひっそり》とするのは無い。――それは小児《こども》たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。静《しずか》なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト瞻《みつ》めても針はソッとも響かぬ。羅馬数字《ロオマすうじ》も風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を揺《ゆす》って見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ――時計は止まったのではない。
「もう、これ午餉《おひる》になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見
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